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「幸福が横たわる」嬉野さんの言葉の切れはし#364

ふたつの孤独な魂が、穏やかでひっそりとした春の午後に、そっと引き出し会わされて、思いがけず慰められ満ち足りてしまったような、そんな幸福な時間。
ーー嬉野雅道

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ということで、奥さんの体験した話ですが。
三歳の頃、あの人は東京湾近くの晴海団地という所に両親と一緒に住んでいて、その頃、妹が生まれ、家の中にあれほどあった母親の愛情が、不意に自分から遠のいたように感じてでもいたんでしょうか、三歳だった女の子は、昼間、つつっと家を抜け出して、ひとりで表に散歩に出るんですね。
団地の4階に住んでいたあの人は、コンクリートの階段をひとつひとつ、小さい体で一所懸命下りていったのだと思います。
団地の敷地内は、わりと静かで、日差しも温かく風もなく、ぽかぽかとし始めた春だったそうです。
三歳のあの人は、家を出る時からそう思っていたのか、それとも表を一人で歩いているうちに、なんだかそんな気持ちになったのか、同じ団地とはいえ、まったく知らない他人の部屋のドアの前に立って小さい手でその鉄製のドアをコンコンと叩いたそうなんですね。
すると、その物音に気づいて、その部屋の人がドアを開けてくれた。
「若いおばさんだったの」
そう、うちの奥さんは記憶しているのです。
ドアを開けてくれたその若いおばさんはきっと驚いたと思います。
見たこともない小さな女の子が、一人だけで立って自分のことを見上げていたわけですからね。
でも、その女の子は、物怖じもせず言うんです。
「あたし、三号棟の近藤なの、おばさん一緒にあそんでくれない」
それを聞きながら若いおばさんの顔はしだいに笑顔になっていったそうです。
きっと三歳児の目にも、ドアを開けてくれた女の人の印象と、その部屋の感じが好かったのでしょうね。
自分のうちにはない、どこか生活感の薄い、花やいだ明るさと若やいだ清潔感が目の前のそのおばさんからも、そのおばさんの部屋からも感じられたのでしょうね。
それに、おばさんと言っても、それは三歳児の印象ですから、たぶんまだ二十代の、一人暮らしのおねえさんだったかもしれないのですから。
そうして部屋に上げてもらった、うちの奥さんは、その見知らぬ若いおばさんと二人きりで、どこか母親の愛情を独り占め出来ていた頃の気持ちがよみがえるような、なんだか幸せな春の午後を過ごしたのだと思います。
おばさんは、テーブルの上に、綺麗なティーカップに淹れられた紅茶と、ピンクやグリーンやらのカラフルな色が楽しげなコンペイトウを出してくれたそうです。
ずいぶん年の離れた二人は、食卓のテーブルを挟んですわり、とりたてて何を話すでもなく、時折はにかんだような笑い顔を見せる女の子を眺めながら、若いおばさんも唐突な出会いを楽しんでいたのかもしれないなと思うのです。
若いおばさんが棚の上から持ってきてくれた、入れ子のマトリョーシカ人形を前にして、三歳の女の子は、開けても開けても出てきてしまうその人形が不思議で、いつまでも面白そうに見ていたそうです。でもきっと、その時、人形を前にして楽しそうにする、その三歳の女の子のあどけなさに、若いおばさんが心を満たされていたことには、その三歳の女の子は気づかなかったろうなと思うのです。
まぁ、これだけの話なんですが、なぜだかぼくはこの話がとても好きで。
なんか、ふたつの孤独な魂が、穏やかでひっそりとした春の午後に、そっと引き会わされて、思いがけず慰められ満ち足りてしまったような、そんな幸福な時間が、その部屋の空間にいつまでも横たわっているような、なんだか、そんな気がするんですよね。
ーー嬉野雅道(水曜どうでしょうディレクター)

《2020年の「言葉の切れはし」について。》
とりあえずは1年、という期限で続けてまいりました「嬉野さんの言葉の切れはし」。おかげさまで、そろそろ365個目を迎えます。予想よりも多くの方の生活の中に入り込めた気がして、嬉しい一年でした。お付き合いくださり、ありがとうございました。2020年は忘れた頃に突然更新されるような、神出鬼没な「切れはし」となります。いったん毎日更新はピリオドです。とはいえ、また、近いうちにお会いいたしましょう。良いお年を。

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