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靖国にて

久しぶりに靖国神社に行った。

靖国は大学時代、憶えきれないくらい通った場所。もちろん参拝しに。というのも、大学が近かったのでなんとなくという理由が7割で、学科で触れていたので意識を持ってというのが3割くらいだった。
靖国の歴史にはお門違いかもしれないけれど、いい時もそうじゃない時も訪れていつも見守ってもらっていたと感じてしまう大切な場所である。

久しぶりに行ったのは数日前の出来事だけれど、参道に入ると常と雰囲気が違った。檻のような柵のようなものがあった。


みたままつり。外苑内苑に提灯(懸雪洞・かけぼんぼりと言うらしい)が掲げられる。
靖国は日本という国の歴史において特別な意味のある神社なので、お盆の風習から生まれた神霊を慰める行事だそうだが、実際に見るそれはまさに壮観である。
今年は7月13日〜16日だそうなので、時間が取れたら足を運びたい。

今年ももうその時期がやってきたかと何のためか分からない虚無感にやや苛まれながら靖国神社での思い出を振り返った。思い出といっても面白いエピソードがあるわけではなく、空きコマの時間に1人で行って全身虫に刺されたこと、ベンチでいつの間にか寝てしまって警備員さんに起こされたこと、友人が裏の池にピアスを落としたこと、卒業袴の前撮り写真を撮ってもらったこと、帰りに食べた美味しいとんかつのこと。
何かあるたびに報告しに行ったこと。
なぜか使命感に駆られて毎回御神籤を引いたこと。など。

私は、月に一度は必ず靖国で御神籤を引いていた。(というか、今も縁あって月に一度は必ず参拝するのでその度に御神籤を引く)特にこれといった理由はないが、運試し的な感覚で幼い頃から好きだった。
御神籤にも色々と種類はあるが、靖国の御神籤には「みおしへ」というものが載っていて、それを見るのが好きだった。
久しぶりの御神籤に書かれていたのは、生花の池坊専応(いけのぼうせんおう)が詠んだ

  目をとめて見ねばこそあれ武蔵野の
  草の葉ごとにをける白露
  目をとめて見ねばこそあれ春の野の
  芝生隠れの花の色々

という歌だった。
調べてみると、こんな風に読解しているサイトがあった。

私たちは「目をとめて」しっかり見ることを要求されがちで、そのことでその一物あるいは部分のみはよく見えるようですが、実はその一物や部分が置かれている全体が見えないのみならず、その部分すらも実は見えていないのです。

少し難しいことを申してすみませんが、この辺の事情を、たとえば林語堂は次のように言っております。

物事を見るのと何も見ないのとは大変な違いである。物事をみて歩く多くの旅人たちは、本当は何も見ていない。何も見ない多くの人たちは、本当は多くのものを見ている。

何か禅問答のようですが、多分真実はこういうことでしょう。私たちはえてして自分に都合のいいものを、都合よく見ておりますが、池坊専応は我欲が吹っ切れた、無心の目でものをみているということ。そうでなければ、「草の葉ごとにをける白露」や「芝生隠れの花の色々」など、何の珍しさもない当たり前なものは目に入って来ない、ということなのです。
金山秋男の「生きるヒント、死ぬヒント」
⑮『人間の生き方「全体を視る目、部分しか見ない目』

何気ないことだが、日常の何気ないことが「分かる」ということが自分にとって必要なことだ。切羽詰まったら一旦忘れて別のことをすると自然とアイデアが浮かんできたり、悩みの渦中では気が付けなかったことに時間が経ってから気付いたり、距離が近いのと遠いのでは全く違って見えたり。そういう"ちょっとした"変化や幸福が「分かる」人間で居たい。頭で理解できるという意味合いでの「分かる」ではなく、実感として分かっていたい。
この「分かる」のちがいは細微なものであるが、自分にとっては「日本人か外国人か」くらい、認識に違いが出るものだと思っている。



全く関係ないけれど私は「靖国通り」が好きだ。どのくらい好きかと言うと、新宿区から千代田区の靖国神社まで、靖国通りを延々と歩いたことがあるくらい好きだ。理由はないので友人にはきもいと思われるだろうが、好きだ。

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