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四十八文字の話『ス』      「スワ」(諏訪)神族と会津藩松平容保公との「不思議なご縁」について  ⚪國譲り神話と幕末期

⚪國譲り神話

古代から語り継がれている「日本神話」の中で    「國譲り」(くにゆずり)と言う話はご存知かと思います。

 

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「葦原中國」(あしはらのなかつくに)の        「國造り、人造り」を推進し             平和で安寧な國を治めていた            『大國主神』(おおくにぬしのかみ 七福神「大黒様」)の もとに、ある日、「高天原」(たかあまはら)からの    使者が来て、こう言います。

「この國は我らの君が治める」


と伝え、「この國を譲れ」と迫ってきました。

皆さん、この話を冷静に考えてみて下さい。      それまで平和な生活をしていた我が家に        突然、見も知らない人物がやって来て        「この土地は素晴らしい陽気が漂っている。      日射しも良い。そして家屋も良い木材が使われている。 なので、今日から私のご主人様が住む事にするよ。   よろしいか?                    うん、君は、何か言い分でもあるかな?」と      言っている事と同じですよね。

現代でこんな事をしたら「犯罪」デスヨね。


ですが、神話の話の中では、             それを聞いた『大國主神』はこう仰いました。   

「私の息子達に聞いて下さい」

それで使者(『建御雷神』たけみかづちのかみ)は     まず長男の                    『八重事代主神』(やえことしろぬしのかみ       七福神「恵比寿様」)に尋ねます。           『八重事代主神』は「國譲り」を承諾し        青柴垣(お墓)にお隠れになります。

使者は次に次男の                 『建御名方神』(たけみなかたのかみ  諏訪ノ神)』に  問いただします。                  

すると『建御名方神』は              「何を奇妙な事を言っているのだ?          そんな事より力比べでもしようではないか」と     仰ります。 


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それで「力比べ」を行いましたが           使者『建御雷神』が勝ちます。

負けた『建御名方神』は出雲から遥かに  遠い信州の「諏訪」まで逃げてしまいます。


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無事に「國譲り」の任務を果たした『建御雷神』。   その後、現皇室の御先祖様である『ニニギ尊』が    「葦原中國」(あしはらのなかつくに)に         無事に降臨をしました、っと、            まあ簡単に言うとこんな「神話」です。


この神話は、正に現代の日本にも引き継がれて     います。  

この時の「力比べ」に勝った『建御雷神』は      現代、関東の茨城「鹿島神宮」に          「勝負の神」として                 祀られています。                  まっ、それは当然ですよね。             勝負(力比べ)に勝ったのですから。


ですがどうしたわけでしょうか?           

負けた側の『建御名方神』も      「諏訪神社」の祭神として        現在でも祀られています。        それも何と❗「軍神」として。


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「諏訪神族」は                   平安時代より、度々奥州に赴いた「源氏」に仕え    幾多の戦功を上げます。               「前九年の役」( 1062年) 以来、幾度も。

そのためか、伊豆に流され、後に「鎌倉幕府」を開く  征夷大将軍「源頼朝」(みなもと よりもと 次回大河ドラマでは、大泉洋さんが演じますね)からも厚遇されます。  またその後の鎌倉幕府執権「北条得宗家」からも    厚い扱いを受けます。

これら一連の「諏訪神族」の活躍から   祖先『諏訪ノ神、建御名方神』は     「軍神‼️」として崇められている     のでしょうか。


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「前九年の役」の図                 向かって右側が鎮守府将軍「源 義家」(みなもと よしいえ 源頼朝、義経、新田義貞、足利尊氏の祖先)


⚪「平和」への願い

「國譲り」神話を聞いて、皆さん、どう思いますか?  中には戦わずして国を譲り、ナント情けない神々か!、 自分なら最後まで戦うぞ❗、と思う方も        おられるでしょうね。

ですが、こういう考え方も有ります。         もしこの時に『大國主神』が             

「そんな事、承服出来ぬ。」と仰った   ならば                 どうなっていたでしょうか? 

おそらく「高天原」と「葦原中國」との 「大戦争」になります。


いつ勝敗が決まるか解らない「大戦争」が起きれば   どんな事になるかは想像に難くはないかと思います。 

国のリーダーたる者           軽率な言動を行うわけにはいかない    でき得る限り              互いの損害を押さえるのには       どうすれば良いか?           それを思っての振る舞いかと思います。



「因幡の白兎」

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皆さんの中にもご存知の方もおられると思いますが、  この出来事が起こる三年程前、            既に「高天原」から「國譲り」の使者が        来ておりました。

この使者、虎視眈々と「その時」を探り       『大國主神』に近づいていきます。          ですが近づいている内に、             『大國主神』の「徳の高さ」「人望の高さ」に圧倒され そのうちに本来の目的「國譲り」の要求などを忘れ   お側近くに従ってしまいます。


それ程の『神様』であられます。



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ご存知の通り『大國主神』は      「出雲大社」の主祀神であり      「縁結び‼️の神様」で          全国的に                特に女性に人気が有る有名な神です。   

ですが                『縁結び』とは何も男女の巡り合わせだけ の話に限りません。          「敵対」する者同士の間に入り      仲立ちをする『縁結び』も叶えます。 


因みにこの時使者、                 名を「天穂日命」(あめのほひのみこと)と言います。   現在でも                      有史以来『大國主神』を祀る「出雲大社」の      社家である「千家」(せんげ)家の祖とされています。

また長男の『八重事代神』も             このお父上の『神意』を既に悟っており        「お隠れ」する形で承諾したのではないでしょうか?  この神様、不義な行いをした者には          決して容赦する事がなかった程の神様だったのです。


⚪時代の趨性

「國譲り」にしても                 これから述べさせて頂く「幕末」期においても     結局「時代の節目」が来ている            それまでは叶っていた同じ価値観、同じ統治構造が   ずーと永遠には続く筈はない。            

いつかは制度疲労を起こし        その後に来るであろう         「新しい時代」への分岐点が      「正に今❗であろう」との        時代の流れを              本能的に感じ取り            「新しい時代」へ渡す事の必要性を    悟ったため               さしたる抵抗を示さなかったのが     神話「國譲り」における        『大國主神』と『八重事代神』であると  思います。


そしてこれからは私論になります。

この時の『大國主神』と               同じ様な感性で世の中の流れを感じ取り        「同じ様な振る舞い」を示し             最小限の被害で収める事を行った           幕末期の歴史上の人物がおられます。 


それが「徳川慶喜」公ではなかったので  しょうか?



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二百六十年も経てれば                当然あちこちに問題が起こり             自らの萎えた「権力」だけでは            解決出来ない事など                 当の「徳川慶喜」公は解っており           敵対する「薩摩長州」との全面戦争を避け       被害を最小限にするにはどうしたら良いか?を     考えていたものだと、思われます。

実際、鳥羽伏見の戦いでの「敵前逃亡」は       その後「無責任」「卑怯者」との謗りを受けます。   

ですがそれはこの「日ノ本」為の行動であった事は   同シリーズ「四十八文字の話『サ』最後の将軍と    小栗上野介(続1~3)」で述べさせて頂いた通りです。


⚪「國譲り」と「幕末期」の構図

今までの話を纏めてみます。

:「國譲り」を承諾  ← 「國譲り」を要求      ◎「 神話の世界」                 

  『大國主神』  ← 『建御雷神』

◎「幕末期」

  「徳川慶喜」公 ← 「薩摩長州」


ですが「神話の世界」において            最後まで抵抗した『諏訪ノ神、建御名方神』。     この神様と同じ役割を担った幕末期の人物は      いるのでしょうか?


その人物こそ              会津藩主「松平容保」公かと       思います。


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⚪勝敗を天下にハッキリ示す役目

それこそ平和裡に事を収めようし          「恭順」の態度を示した              「神話」における『大國主神』。           そして「幕末期」における「徳川慶喜」公。

ですが「戦い」と言うものは或る意味で  「勝敗」を世間にハッキリさせなければ  なりません。


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何故なら、その当時を生きる一般の人々は、      一体どちらの側に合わせれば良いのか?        これから安心した生活をするにはどちら側の指導に   従って行けば良いのか?、などとの思いが有ります。  ですので「勝敗」がハッキリしないと         生活、気持ちがスッキリする事など出来ません。

    

それで、勝敗をハッキリ世間に晒す役目❗の「人物」が必要になってきます。     

それは 

◎「神話の世界」→『建御名方神』    

◎「幕末期」  →「松平容保」公  

だったと思われます。


こんなとても重要な要となる役割❗を         軽がしく赤の他人に頼む事などは出来ないと      思われます。

ですから自分にとって信頼の置ける人物  それも更に『身内❗』の者に       その役目を、その時の国の指導者     『大國主神』、「徳川慶喜」公が     自ら直接に‼️              頼んだのではないか‼️          と思います。 

   

「國譲り」においての『建御名方神』は       『大國主神』の息子であり             「幕末期」においての「松平容保」公は        正に徳川一門であり「徳川慶喜」公と同じ       「水戸徳川家」の系統です。


「松平容保」公、            会津松平家の祖である         「保科正之」公との繋がりで       「神話の世界」を越え          信州「諏訪神族」の祖先と言われる    『建御名方神』と           「同じ役目」を演じた事となるのでは   ないでしょうか?



皆さん                       ここまでの話を聞いて、               でも、そんなの役割を演じた方々は、         実に損な役割、貧乏くじを引いてしまったな~、と   思いますよね。


ですが、そう単純な事ではないのですよ❗




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