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ザット(ノン)ダンシング・デイズ

ダンスすることそのものが大問題だった問題

昨今、高校の部活動などで特に人気が高まっていて、入部希望者が増加しているのが、ダンス部であるという。日頃鍛えたパフォーマンスの技量を競い合う競技会はどこも盛況で、全国大会に毎年出場するような強豪校は、広くその名が知れ渡ってもいる。中学校でもダンス部というのは当たり前のものになりつつあるようだ。今やテニスや水泳をするのと同じようなレヴェルで、多くの学生たちがダンス部に所属し青春の日々を過ごしている。一糸乱れぬダンスを披露する強豪校のダンス部の演技を見て(ユーチューブなどの各種動画サイトで)、それに憧れてダンスを始めるものも多いのであろう。やはり、仲の良い友達と一緒にダンスする楽しみや、親しい仲間とともに振りと呼吸を合わせて踊る愉楽や快感が、もはや当たり前のことのように若い世代の中に広く深く浸透しているからこそ、こうした状況が生まれているのだともいえる。ともに踊ることで各部員の距離は縮まり、親近感で個々の人間が相互に繋がることができる。それゆえにこれまでにあったティーム・スポーツの部活動のようにダンスというスポーツも部活動として成り立ち、ダンスの一体感がクラブ全体の団結へと結びついてゆくようにもなる。そうした各学校での盛り上がりを受けて、各地方での全国を目指す大会も広く行われるようになるのである。ダンス部、もしくはダンスというものは、体育会系の部活でありながらも創作する文化系的な側面ももつクラブとして、もはや現在の学生にとっては学校生活の中にごく普通に存在しているものといえるのであろう。(80年代の半ばに、そういったみんなで和気藹々と青春するダンスの部活動があったとしたら、おそらく個人的には最も忌避したいタイプの集団であったかもしれないけれど。そういった熱さや明るさに対して積極的に背を向けることこそが、自分の世界を防衛する唯一の道であると思い込んでいた高校生活であったから)
しかし、かつては踊るということそのものが、かなりの重大事であったのである(個人的な感覚でいうと、80年代半ばごろまでは)。そもそも、どこにも踊っている人などほとんどいなかったのだから。もしも、好き勝手にその辺で踊り出したりなどしたら、ちょっと頭がおかしくなってしまった人だと思われたことであろう(ただし、少しおかしくなった人でもそのまま放置されていたのが、かつての日本の社会であった。見るからに危なっかしい人を除けば、逸脱者を積極的に排除しようとする動きなどは、あまり見受けられなかったように思う)。盆踊りや伝統的な舞踊などはあった。だが、それらは決められた場所で決められた時に決められた通りに踊られるものであったのだ。好き勝手にそこら中で盆踊りなどはしていなかった。ただし、竹の子族やローラー族、ディスコ族など現代の学校のダンス部にも通じるような集団は当時もいて、同じ振り付けでみんなで踊るという形式は一部には存在していた。
そこらの目につくところで誰も踊っていないし、そこら辺で踊っているとおかしいと思われる空気はあったが、みんなで踊れば怖くないという気分も大いにあった。誰もそこら辺で踊っていないからこそ、敢えてここぞという場面で踊ったのか。まだまだ踊ることそのものが、かなり特別な行為であった、ようなところはある。しかし、そこにある意識的な抑制や禁則のような何かを突き抜けていたためであろうか、反動的に竹の子族などは人から見られるということを大いに意識して、派手に堂々と路上でダンスを繰り広げていたのではないか。明るい昼日向に天下の原宿の往来で集団で踊ることで、何か感覚の面で変容するのものがあったのだろう。だが、竹の子族やローラー族の若者というのは、一般のレヴェルから見ると相当に異質な存在でもあった。そういう異様な集団だからこそ、注目を集め人の目を捉え社会現象として話題になったのだと言ってもよい。踊りとは、それほどまでに当時の日本人の日常の中には介在していなかったものなのである。
元々は後に竹の子族となった若者たちもディスコでダンスをしていたという。しかし、集団で決まった振り付けで踊って楽しむ竹の子族のスタイルは、純粋に音楽とダンスを楽しむ場としてのディスコの様式にいまいちそぐわないものと徐々に認識されるようになっていったという。赤坂のムゲンのように(基本的に・伝統的に)大人の遊び場であったディスコには、竹の子族のような子供っぽいノリをできるだけ排除しようとする傾向もおそらくあったのであろう。そして、みんなでワイワイ楽しむ若者たちの集団はダンスフロアから追い出され、ディスコには出入り禁止になってしまったようだ。遊び場と行き場を失った若者たちは、溜まった憂さを晴らすように週末の原宿の歩行者天国の路上に集結し、ラジカセで大音量の音楽を流しながら心ゆくまで集団で決まった振り付けのダンスをして楽しんだ。七色の照明に照らされるダンスフロアよりも明るい陽光が降り注ぐ路上で踊る方が、周囲からの注目も断然集まった。多くの見物人が原宿に押しかけるようになり、そのダンスは(冷ややかな目で)見られるものから見せるものへと次第に変化してゆくようにもなる。そして、揃いの振り付けに揃いの派手な衣装というスタイルが確立されて、原宿の歩行者天国に竹の子族のムーヴメントが誕生した。
その頃、まだコンサートというものは、基本的に座席に座ったまま、じっと耳を傾けて鑑賞するものであった。ロック・バンドのコンサートでも、ほとんど人は動かなかった。椅子に座ったまま音楽に聴き入り、曲が終わると整然と拍手をして、初めて音楽に対する体を使った反応を示した。踊るという以前に、座席から立ち上がって、全身を使って音楽を楽しむということ自体があまりなかった。かつての海外のアーティストのインタヴュー記事においては、そうした不思議な日本人のコンサートの楽しみ方に対する驚きの感情を素直に語っているケースをよく見かけた。それは本国の聴衆の音楽の楽しみ方とは大いに違っているものだったのであろう。日本の聴衆は、ステージの上から促されてからでなければ、自分から率先して立ち上がることすらなかった。周囲の人々のやり方に合わせようという気持ちも、そこではとても強く作用していたのであろうか。個人として楽しむのではなく、その場にいる聴衆として、みんなで音楽を聴いていたのだろう。誰か一人の身勝手な行動は決して許されるようなものではなかった。そこにいる聴衆が音楽を聴くことに対して邪魔立てをしてはならないから。そして、その場にそぐわぬ行動をして排除されてしまっては、自分も聴衆の一員として音楽を聴いて楽しむことができなくなってしまう。何かの機会に一斉に立ち上がるのでなければ、日本の聴衆は決して立ち上がって音楽を楽しむことは決してなかったのである。
音楽に合わせて自由に体を動かして踊る。そういったことは、自分もほとんどしたことがなかったように思う。少なくとも、物心がついてからは。大抵は、何かしらの動きや振り付けが(予め・前もって)音楽に合わせて決められていて、それに合わせて体を動かすものであった。小学校の運動会などでやるお遊戯やダンスである。よって、それはその場その場において自分で自分の体の動かし方を考える必要はまったくないものだった。決められた通りに振り付けを繰り返していればよいものであったから。それに、いきなり自由に踊っていいと言われても、そうした経験はほとんどなかったので、どのように体を動かして手足をどのようにそれに従わせれば良いのかもわからなかったであろう。本当の意味での踊りやダンスからは、わたしたちはとても程遠いところにいた。ゆえに、初めてダンスフロアというものを目の前にした時にも、足を踏み出してそこに出て行くことは大きな決意と決断を必要とした。ダンスを知らない体にとっては、ダンスすることは本当に大問題であったのだ。それ以前には、ダンスといえば、それはダンスフロアではなくライヴハウスの中にあるものであった。

ライヴハウスでのパンク・バンドのライヴ(当時はギグなんて呼んでいたけど)では、元気の良い若者たちがステージ前で勢いよくジャンプして飛び跳ね続けるポゴ・ダンスを行う光景が、ごく当たり前のように見られた。このポゴ・ダンスだが、その名の通り一応はダンスの一種だといえるであろう。しかしながら、ダンスとはいっても、それは自由に体を動かすような踊りからは、かなり程遠いものではあった。ただただ、その場で激しいビートを持つ音楽に合わせて、ひたすらに体を上方に跳ね上げる行為を繰り返すだけで、手や足を特に踊るように動かすようなこともなく、ダンスというよりも単調な激しい運動に近いものであったのかもしれない。
ライヴハウスのステージ前でひとかたまりになった若いパンクスの一団が音楽に合わせて一斉にジャンプして上下動する。人気バンドの人が多く入っているライヴになると、ステージ前はすし詰め状態であり、自由に身動きが取れないながらもほぼ真っ直ぐに突っ立ったままの姿勢で整然と集団ポゴ・ダンスが行われていた。
ポゴ・ダンスとは、元々は子供の遊具であるホッピングのビョンビョンと飛び跳ねる動きに由来しているという。子供達がホッピングで飛び跳ねながら体をぶつけ合う遊びにヒントを得て、パンクスが自分の体だけを用い(エア・ホッピングで)ピョンピョンとジャンプしながら互いにぶつかり合う遊びを行なっていたのが、転じてパンク・ロックを楽しむためのダンスのスタイルに取り入れられたらしい。70年代後半のロンドンのパンク・シーンにおいては、パンク・バンドの演奏する激しいサウンドをステージ前で浴びるように聴いて、まるで雷に打たれたかのように感電して痙攣し、そのこわばった体をピョンピョンと上方へ跳ね上げる動きが、なぜか流行していた。ロンドン・パンクのストレートでむき出しになったロック・サウンドは、当時の多くの若者たちにとっても(ビリビリと痺れるくらいに)かなりセンセーショナルなものであったのであろう。そして、その飛び跳ねる痙攣パンクスが、ライヴの会場のあちこちで集団でガンガンとぶつかり合うようになる。そうした奇妙な踊る集団の行為が、そのうちにポゴ・ダンスと呼び習わされるようになってゆく。のちには日本のライヴハウスでも、パンク・バンドのライヴでそれを模倣して集団でポゴするようになっていった。

新宿ロフトの狭いステージ前のスペースで、激しく性急なビートでノイジーに突っ走りまくるパンク・バンドの演奏に合わせて、ピョンピョンと飛び跳ねて縦ノリのポゴ・ダンスをする。小気味よくメリハリのついたビートの楽曲が演奏されると、ステージ前の複数人によるポゴ・ダンスは、リズムに合わせて一定の揃った上下運動をするものへと集約されてゆくようになる。若いパンクスによる一糸乱れぬ集団的ポゴ・ダンスである。そこにいる数十人の人間が狭い場所でひとかたまりになって上に下に体を動かし飛んだり降りたりする。その内部でポゴ・ダンスをしていると、そのうちに段々と、そこにいる全員が一斉にジャンプしていて全部の足が宙に浮いている状態があるのではないかと思い出すようになり、ついついそのことばかりを考えてしまうようなこともあった。ライヴハウスの床に小型のカメラを設置したら、全員が空中に飛び上がっている面白い光景を撮影できるのではないか、などと考えてばかりで、パンク・バンドの大音量の迫力の演奏に全く集中できなくなってしまうことすらあった。
ポゴ・ダンスの集団の中にいながら、みんなで一緒に全く同じようなタイミングで同じ高さで飛び跳ねて音楽を楽しみノリノリになっていることへの違和感が、少しずつ心の中に芽生えてくるようになってきていた。ライヴハウスという一種特別な場所にパンク・バンドのライヴを見にきて、反抗や批判の精神を持つパンクという音楽を聴いて、大いに盛り上がっていながら、みんなで一斉に周りに合わせてピョンピョンしているだけのポゴ・ダンスは、全くパンクではないように感じられてきてしまったのである。そして、直線的なノリが主となっているライヴハウスの狭いスペースでの形式化されたポゴ・ダンスと結びついていたパンク・ロックとは異なるビートやサウンドをもつ音楽へと、次第に興味は広がってゆくようになった。
ありきたりなパンク・バンドとは異なるビートやサウンドを追い求めるようになったものの、もうすでにそれはとても近いところに存在していたので、見つけるのは容易かった。ただ単に同じようなライヴハウスにあぶらだこやソドムを見に行けばよいだけの話であったのである。あぶらだこもソドムも元々はスターリンのギタリストであったタムが主宰するADKレコードから作品を発表していたハードコアなパンク・バンドであった。だが、80年代の半ばごろには、ありきたりなパンク・ロックのスタイルにこだわることなく、それをさらに進化させた音楽性を獲得し、年若い(パンクの様式美にあまり強いこだわりをもたぬ)パンクスを中心に熱烈な支持を集めていた。当時、そのサウンドや音楽性は、何に対しても否定的で破壊的ですらあったハードコア・パンクに対比させる意味合いも込められていたのであろうが、ネガティヴ一辺倒ではないパンクとしてポジティヴ・パンク(略してポジパン)などと呼ばれていた。変拍子の楽曲があったり一曲の中で目まぐるしくリズムやテンポが急激に変化する展開があるなど、ただ普通に何も考えずにピョンピョンと上下に飛び跳ねてポゴ・ダンスしているだけでは、決してノリについて行けないしライヴを楽しむこともできない音楽を、あぶらだこやソドムは演奏していた。
ステージの前に詰め掛けた一団は、思い思いに楽曲のリズムや拍子を捉えて体を動かしていた。意図せずに好き勝手に動く人々が入り乱れて、そこに汗や熱気が加わり、ライヴが始まるとすぐにそこはぐちゃぐちゃな状態となっていた。飛び跳ねに強弱をつける形で変則的なポゴ・ダンスをする人もいれば、グッと踏ん張って横ノリで楽しむ人もあり、ステージ上で縦横無尽に躍動するソドムのヴォーカルのザジの動きに呼応しているのか斜めに飛んでくる人も結構いた。それぞれがそれぞれの動きで音楽を解釈してノリまくり、それぞれがそれぞれにぶつかり合っても構わずに、音楽をそれぞれ思い思いのステップによってダンスすることで楽しんでいた。
今から思えばソドムのライヴには若い女性も多く訪れていたと思うが、狭く薄暗いライヴハウスの中ではあまりよくわからなかった。ほとんどが男女問わずに黒づくめのだらっとした服装で、髪型だけ見てもあまり男女の区別はつきにくく、人が入り乱れるステージ前のスペースでは多少のぶつかり合いはあってもそれぞれに好き勝手に音楽に合わせたダンスを楽しむことができていた。パンクのライヴで全員でひとかたまりになってポゴ・ダンスで押し合いへし合いするのとは、また一味違うぐちゃぐちゃなぶつかり合いがそこにはあった。それは、自分の好きなようにノッてダンスして楽しめる音楽であった。音楽を楽しめていたから、多少のぶつかり合いはなんともなかったのかもしれない。そして、そこに何のルールも課せられていない自由を感じられたことは確かである。他の人がどうしているかを気にせずに自分の好きにやっていいのだということに、なんとも言えない安心感も感じられた。地下の狭いライヴハウスのスペースは、社会からは隔絶されたもう一つの世界で、そこに足を踏み入れているだけでも解き放たれているような感覚もあった。あぶらだこやソドムのライヴを見ることで、そうした自由や解放の感覚が、いつしかより染み付いていっていたのであろう。そのようなダンスの世界を垣間見てしまっていたものにとって、その数年後に出現した地下のナイトクラブのハウス・ミュージックのダンスフロアは、どことなくそこと全くの地続きな場所のようにも感じられた。わたしたちは、その世界にいきなり飛び込んでいったのではなく、ごく普通にそこまで歩いて渡っていったのである。

ライヴハウス/ダンスフロア

イリノイ州シカゴの街でフランキー・ナックルズがDJを務めたナイトクラブ、ウェアハウスとともにシカゴ・ハウス発生の源流となっていたのが、ロン・ハーディがDJを務めたナイトクラブ、ミュージック・ボックスであった(ミュージック・ボックスは、フランキー・ナックルズが新たにナイトクラブ、パワー・プラントを開店させ拠点を移しためにウェアハウスは閉店となり、その跡地で新たに営業を開始したナイトクラブである)。このミュージック・ボックスは、82年から87年にかけてロン・ハーディのちょっと常軌を逸しているくらいにワイルドかつタイトなDJプレイで、シカゴのハウス・ミュージックのシーンをホットに牽引し続けた。その頃、時を同じくしてニューヨークにはパラダイス・ガラージがあった。この天才DJやDJの中のDJといった賞賛を欲しいままにするラリー・レヴァンがDJを務めたナイトクラブは、77年から87年までの11年間に渡ってニューヨークのダンス・クラブの最高峰であり続け、様々な文化現象に影響を与え、ガラージ・サウンドという一つのダンス音楽のスタイルまでをも生み出した。ラリー・レヴァンが頻繁にプレイした楽曲は、ガラージ・クラシックスとして今なお語り継がれており、一つの様式の伝統として継承されていってもいる。ロン・ハーディとラリー・レヴァンは、シカゴとニューヨークというそれぞれの街で、新しい音楽の歴史を作り出してしまうほどに絶大な影響力を誇るDJプレイをほぼ同時期に同じように行なっていた、間違いなく天才肌のクラブDJたちであった。そして、そのミュージック・ボックスとパラダイス・ガラージには、どこまでも自由にダンサーたちが自己を解放して思い思いに身体を躍動させることができる最上級のダンスフロアがあった。
その頃、東京には何があったか。新宿ロフトがあった。このライヴハウスが、西新宿の地下スペースにオープンしたのは、76年のこと。これはパラダイス・ガラージとほぼ同じ時代にオープンしたことになり、ミュージック・ボックスの前身であるウェアハウスがオープンしたのもガラージと同じく77年のことであった。つまり、いずれも同じような時期に営業を開始していたことになる。多くのダンサーたちが週末の夜にシカゴ・ハウスやガラージ・サウンドで気持ちよく踊っていた頃、わたしたちは地下のロフトでソドムやあぶらだこなどのライヴを観てステージ前でぐしゃぐしゃになりながら自由に音楽に合わせて思い思いに身体を動かす感覚と邂逅していたのである。
その後、ソドムのヴォーカリストであったザジは、代々木のライヴハウス、代々木チョコレートシティにおいて深夜に延々とDJを行うパーティを開催していた。地下のライヴハウスのスペースは一面がガランとした何もないダンスフロアとなっていて、ミラーボールがぐるぐるとゆたっり回りストロボライトがばちばちとまたたきシンプルな原色の照明と盛大なスモークが、薄暗いアンダーグラウンドな雰囲気をいやが応にも形作っていた。そこにニューヨークやシカゴのハウス・ミュージックやガラージ・クラシックが大音量で鳴り響いていたのである。あまりダンサーたちの数は多くなかったが、東京で最もパラダイス・ガラージやミュージック・ボックスに近い感覚で存在していたダンスフロアがあったのは、実は代々木チョコレートシティではなかったかと今でも密かに思っている。
シカゴとニューヨークと東京の街に、ほぼ同じ時期に、同じような自分たちの行き場を求めていた若い世代のための自由なダンスの場があったことは、ただの偶然などではないのだろう。あの当時の時代の空気の中で生活しているうちに、もうすでに地上の世界には、自分たちが自分たちらしくいられる場所はなくなりつつあるのだということに、みんな薄々勘付いていたのではないか。都市に若者たちは多くいた。しかし、かなり若者のあり方そのものも真面目タイプであっても不良タイプであっても(都合よく)画一化されてきてしまっていて、あまりそこからハミ出そうとするものはいなかった。だが、パンク〜ポスト・パンク〜ニュー・ウェイヴの時代を経て、よりオルタナティヴな道を選択しょうとするものも少なからずいたのである。そうしたものたちは、世間一般からは(仲間内の輪から外れた)ネクラなどと呼ばれていたが、そのうちにナイトクラブやライヴハウスを発見し、地下の階層へとぐんぐんと潜り込んでゆくようになる。新宿ロフトも代々木チョコレートシティも、まさに地下の(子供たちのための)自由空間であった。地上の世界からは目の届かないところで、好きな音楽に合わせて思い思いに身体を動かしダンスすることができた。シカゴの若者にミュージック・ボックスがあり、ニューヨークの若者にパラダイス・ガラージがあったように、それに匹敵する地下の自由空間=ダンスフロアは、東京にも間違いなくあったのである。

(2010年代後半)

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