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「子ほめ」ろん

TVK「浅草お茶の間寄席」にて、桂歌春の「子ほめ」を聞く。まずは楽屋インタヴューでの「チバテレビさんは東北新社みたいなもの」発言が物議を醸しているとかいないとか。ただし、おそらくは子供が接待要員をやらされている家庭というのはそうは多くないと思われるので、これは誰も傷つけない(はずの)ギャグであると判断することができる。
本題の「子ほめ」に関しては、噺が終わった後にしばらく時間が経ってから気づいたことがある。演目が演目なだけに、少し気を抜いていたようなところもあったのかもしれない。しかし、それゆえにか思いもかけずに後からじわじわときた。
この噺のオチに関しては、ちょっとそれまでの流れからは飛躍しているようなところがあるので、いまいちわかりづらい。というか、一瞬「これはなんのことかしら」と急いで考えを巡らせなくてはいけなくなることもある。
そういった、まあちょっと一癖あるオチなのである。こういうやや面倒くさい形式の落語を聞き慣れていないと、なにがなんだかさっぱりわからず唖然としてしまうことだってあるだろう。
また、即座に「ああ、あれか」と思い当たったとしても、冒頭の灘(ナダ)の酒とタダの酒の聞き間違いにまでさかのぼるという端から端までの大跳躍に、かえって唖然としてしまうこともあるかもしれない。
日常会話におけるコミュニケーション技術の高さの大切さを説くきっかけとしての聞き間違いが先ずあり、そこからご隠居に世辞の使い方を教わり、それを付け焼き刃のままほうぼうで実践し、すったもんだがあり、ようやく赤ん坊を褒める場面となる。「子ほめ」は本題の「子ほめ」が始まるまでが、ちょいと長いのである。
本題にいくまでにあれこれといろいろなことが巻き起こり、様々な小ネタ(くすぐり)の積み重ねがあって、最後の最後で噺の初っ端から結までをきゅっと一本に貫くようなオチがきて、「ああ、なるほどね」となるのが「子ほめ」であるから、ちょっと長めの紆余曲折があってこそ噺が噺として噺らしく成立するのだともいえる。
しかしながら、歌春師匠の「子ほめ」は、よくある「子ほめ」とはひと味ちがっていた。聞き終わって、しばらくしてから「あれは何だったんだんだろう」と思わされる仕掛けがこっそり仕込まれていたのだ。そのせいで時間差で効いてくる、なんとも味のある噺となっていたのである。
やおら「すわ、師匠もしや天才なのではないか」と思ったりもしたが、冷静になって考えてみると、まあそれほどのことはない。そのひと味違っていた部分というのは、ラストの赤ん坊を褒める件で、さらっとひとやりとりが付け加えられているだけのことであったからである。
いまいち噛み合わない会話の中で、なぜかいきなり赤ん坊の体重(目方)の話になり、それが九百匁だということがわかる。それを聞いた八っつあんが「一匁いまいくら?」と、生きた赤ん坊をまるで量り売りの商品であるかのように金(銀)に換算するレートを聞き返してくる。会話が脱線して、ちっとも「ほめ」にならないというばかばかしいやりとりである。ちなみに、九百匁の赤ん坊というのは、いまの目方でいうと三三七五グラムぐらい。育つかなあ。ええ、育つでしょう。
それまでの噺の流れを振り返ってみても、匁やら目方に関する話題は一度も出てこない。よって、ここでの匁をめぐるやりとりはかなり唐突である。そして、噺の大筋とは関係がなさそうな話題であるから、聞く方もすっと通り過ぎてしまって、そのときはちっとも頭の中に残らない。このすっとぼけた「一匁いまいくら?」のひとことが、後になって効いてくるとは、誰もが夢にも思わないだろう。そこが狙いだ。
だがしかし、これが、いよいよという段になって初っ端から結までをきゅうっと一本に貫いて振り返ってみるというと、かなりおとぼけが過ぎている発言であったものの「あれは何のことだったんだろう」と気になってくる。噺の端から端までの大跳躍だと思わせておきながら、途中で唐突に物の値段を尋ねるようなひとことが組み入れられていたことで、噺の筋がよりこんがらがって渋滞をきたしたり、そもそものサゲの理解の助けにもなったりする。
突拍子もなく「一匁いまいくら?」といっているときに、実はもうすでに八っつあんは赤ん坊の目方のことではなく、タダの酒のことを考えている。ここでいう匁とは重さの単位ではなく、銀貨一枚のことであり、おおむねその価値は一両の十分の一ほどで、いまの貨幣価値に換算すると数千円程度である。
つまり、八っつあんは一匁あればいまならどれくらいの酒が買えるのかということを唐突に尋ねているのである。これを聞いた赤ん坊の父親の竹は、それが目方のことだとも酒の値段のことだとも見当がつかず、ただただそのすっとぼけた発言に対して「おいおい、何おかしなこといってるんだい」という父親らしい真っ当な反応を示すのみである。
何の意味もないようなたわけたやりとりではあるが、これが噺の中にいいタイミングで投げ込まれるだけで妙にひと味違った後味を残すことになる。しかしながら、この線は細いが非常に洒落のきいている「一匁いまいくら?」のひとことを、あまりほかの「子ほめ」では聞いたことがない。
ただでさえオチが落ちづらくわかりにくいところがあるというのに、唐突に飛び出すすっとぼけたひとことを挿入して、さらに内容をかき回すというのはちょっとやりすぎだという判断なのだろうか。それに加えて「一匁いまいくら?」という質問は、昭和~平成~令和と時代を経るにしたがって、匁という単位自体がすっかり使われなくなって庶民にとっては全くぴんとこないものになってきているということもあるために、次第に廃れてきてしまったということなのだろうか。
もはやサゲでサガるかサガらないかといったことを度外視して、主に江戸の市中の庶民の会話や日常のコミュニケーションのおもしろさといった部分で笑って楽しめればいい噺に「子ほめ」はなりつつあるのではないだろうか(一般的にも前座が演ずる前座噺に分類されている)。そういう意味でも、歌春師匠の「一匁いまいくら?」は、かなり落ちづらい「子ほめ」を、時間差で思い出して感心させるマジカルな噺へと味変させる最強の裏技的パンチラインなのではなかろうか。
われらがユーチューブに立川談志の「子ほめ」を収録したものが、(現時点では)おそらくふたつほどアップされている。まだまだお若い時分のものと思われる「子ほめ」は、やはり気力体力ともに充実しているのか、かなりテンポよくきっちりみっちりとやっている。
あのサゲづらいサゲまで、自分では「めちゃくちゃになっちゃった、こりゃなぁ」なんていいながらも(前後の配置を入れ替えたり他の噺から引用したりリミックスしたり実験的で緻密な再編集を施すのが談志の落語の定型ではあるが)畳み掛けるように喋り尽くして、すぱっと終わらせる。実に潔い。サゲがサガろうがサガらまいが知ったこっちゃないといったたぐいの快心の投げ切り方である。
しかし、談志の「子ほめ」にも「一匁いまいくら?」の件はひとかけらもない。灘の酒からの一切合切を、あちこちに補助線を引いたりわずらわしいことは抜きにしてサゲとともにずどんと雪崩式に一息に突き落としてしまうのが江戸落語の「いき」ということなのだろう。
さて、問題なのは、まくらで芸歴五十年とかなんとかいっているので、きっと二千年代初頭のものと思われる晩年期の「子ほめ」である。年齢は六十代半ばあたりか。お若く見えますねえ。時期としては最初の癌を患った後で、かなり難しいお年頃にさしかかりつつある。
収録の持ち時間は三十分のようだが、ただただあれこれについて取り留めもなく喋り嘆いたりぼやいたり漫談してばかりで、なかなか噺を始めようとしない。そして、持ち時間のほぼ半分を過ぎたころになって、ようやく「子ほめ」を即興でやるといいだして、客席から待ってましたと拍手をもらう。
聞き馴染みのある付け焼き刃のまくらから灘の酒の聞き間違い、隠居とのやりとりをみっちりとやって、そのせいで時間がなくなってきて中盤のすったもんだを端折って、いきなり竹のところで赤ん坊を褒める段になる。こうして駆け込むように本題の「子ほめ」の場面をぱっぱとやるのだが、あの若い砌の噺では聞けたサゲをここではそのままいわない。「生まれたばかりにしては若く見える。生まれてないみたいだ」といいかえている。
あまりの客席の反応の鈍さに、これでは立川流家元として満足がいかなかったのか、その直後にふたつめのサゲを付け加えている。こちらも禅問答のような深いといえば深いサゲではあるのだが、どうにもこうにも歯切れが悪い。ばりばりであった昭和のころの潔さと比べると、やはりあんまり「いき」ではない。そこがまあ、このころの談志らしいといえば談志らしい、のかもしれないが。
結の締まり具合からいえば、「生まれてないみたいだ」も決して悪くはない。有るけれど無い不思議が、このサゲの肝の部分ではあると思うので、そこのところはうまくふんわりと掴んではいる。
また、前半の散々ぱらぼやいているパートでは、年齢を重ねてみて「落語なんて直しようがねえ」ことがやっとわかったなんて漏らしてもいる。五十年かけてひたすら芸道を追求してきたけれど、自分の能力や才能では到底無理な話だったと告白する家元。しかし、落語というのは、それそのもので生き物のようなものでもあるわけで、放っておいても落語が自分で自分を変えていったり直してゆくものなのではないか。
であるから、「子ほめ」のサゲひとつとってみても、今では「どう見ても半分だ」とする噺家が大半を占めている。まあ、このサゲの文句も、何というかどうにも仕方がないので半分としているようなところがあって、非常に歯切れが悪いし潔さにも欠ける。だが、それでも大半がそうなっているというのは、落語が自分で自分をそうしているからなのであろう。だが、それは今はたまたまそうなっているというだけのことでしかない。
「一匁いまいくら?」を付け足すか、まるっきりないままにしてしまうかでも違ってくる。噺家の数だけのいろいろな「子ほめ」があって、それは時代とともに少しずつ変わっていって、時代の中で時代にフィットするようにもまれにもまれて、その時代を鏡うつしにしたような今の「子ほめ」がいろいろに演じられてゆくのである。
そんな生きた落語を相手にしているのだから、ひとりの噺家が自分の才能というものを頼りにああ直そうこう直そうともがきにもがいたところで、結局のところどうなるというものでもない。噺家がイリュージョンを仕掛けるのではなく、落語の噺そのものがそもそも「なんだかわかんないけどとにかくすんごい」イリュージョンなのだ。
「子ほめ」の正統のサゲが「どう見てもタダだ」であるというのも、そこに味わえば味わうほど深い味わいを醸すものがあるからだろう。生まれたばかりの赤ん坊を目の前にして、「どう見てもタダだ」といってしまうこのおかしなズレ方こそが、ちょっとしたイリュージョンへの入り口なのである。見えているけどそれが見えていない。有るけれど無い不思議。
タダとは、そこでは何も金額や年齢が発生していないフリーな状態のことをいう。よって、つまるところが無である。無、リアン。金を支払わないで支出無しで飲める酒だから、タダの酒。実年齢よりも若くいってあげて褒める方法を赤ん坊に適用すると、生まれたばかりの数え年ひとつよりも若くいってあげなくてはいけないので「どう見てもタダだ」となる。
このサゲのフレーズは、有るけれど無くて、無いけれど有るものを言表化しようとする試みのようにも聞こえる。「どう見てもタダだ」というのだから、そこに無いもの(数えることや数値化から解放されフリーになっているもの)であっても見ることができてしまうということか。見える見えないだけでは存在の有る無しの裏付けや根拠にはならない。
ここにはマルティン・ハイデガーが「形而上学入門」の冒頭で投げかけた「なぜ一体、存在者があるのか、そして、むしろ無があるのではないのか?」という問いに非常に近いものがあるようにも感じられる。「どう見てもタダだ」は、ハイデガーの問いを江戸の庶民の言葉で言い換えたもののようにも聞こえるし、談志の「生まれてないみたいだ」もそれに限りなく近い。
このサゲで、はたして「子ほめ」は何を表現したいのか。たぶん、そんなものはない。つまるところが無なのである。無、リアン。何から何まで「どう見てもタダだ」なのだ。それがすべてだ。むしろ無があるのだ。目の前に褒めるべき生まれたばかりの赤ん坊がいるのも、いくつもの偶然の積み重ねでしかない。たまたまそこにあるだけだ。だから「生まれたばかりにしては若く見える。生まれてないみたいだ」でも正解である。唐突に、そこで「一匁いまいくら?」と聞いてみるのもいいだろう。後になってタダ(無)の深みが増す。
「子ほめ」の無が、深いイリュージョンのデプレッション(落ち窪み)を生む。噺の向こう側の、何もない深い深淵を覗き込む。それこそが「子ほめ」を聞くということではないだろうか。何か見えるのか。何も見えていない。有るものが見えず、無いものが見える。だから、「どう見ても半分だ」では、あまりにも中途半端ではないだろうか。
ふたつめのサゲ。八五郎に「どう見ても半分だ」といわれた、生まれたばかりの赤ん坊が、やおらすっくと立ち上がり。おじいさんそっくりのしわくちゃの手で茶碗を差し出して、「もう半分」。

(2021年5月)(2021年7月・改)(2021年10月・改)

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