タイトルなし

スティサート師の説法~なぜ瞑想をすればするほど、苦しくなってしまうことがあるのか?(3)なっちゃっている時は、観えていない。観えれば、観られるものにはなっていない



タイ仏教、特に
東北タイにある森の寺
スカトー寺に縁あるお坊さまたちの説法を
翻訳して毎日お届けしています。

昨日からはまた
新しい説法を訳しています。

丁寧な瞑想指導で評判の
スティサート・パンヤーパティポー師。

スカトー寺副住職ならびに
ウィリヤダンマ・アシュラムのリーダー僧。

カンポンさん、カムキエン師
お二人の最期を看取られたお坊さまです。

今日から訳すのは
5年前に行われた瞑想会の際の説法。

毎月行われる
バンコクでの瞑想会でのものです。

テーマは

「なぜ瞑想をすればするほど
 苦しくなってしまう、ことがあるのか?」

です。

今日の部分のタイトルを

「なっちゃっている時は、観えていない。
 観えれば、観られるものにはなっていない」

としました。

   ちょっとわかりにくタイトルですが
 言いたいことは
 ずーっとお坊様たちがおっしゃっている内容です。

観る、知る力をつけていくと
何気ないこんなことも
気づきがが間に合うようになってきます。

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