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人生の赤ペン先生が欲しい。

サブタイトル:「知識」と「情報」の違いと、思っていないといけないこと。

長く一つのものを追いかけていると、自然、その名を今初めて聞いた、という段階の人に比べてある程度持ちうる情報は多くなる。
そうすると必然、「詳しいですね」と言われることもあるのだが、謙遜でもなんでもなく、全然詳しくないと思っている。

どうしてこの謙遜でもなんでもない気持ちがずっとあるのかというと、ただ単に「情報」を多く持っているだけであって「知識」が豊富なわけではないと思っているからだ。
たまに陥りがちになる、「知識」と「情報」の区別と自惚れ防止のためのnoteです。

過去のnoteで「新しい界隈に足を踏み入れる時、ある程度知識で防御力を上げねばならないことがある」と書いた。
この時は「知識」で一括りにしたが、大部分は「情報」の持ち合わせでなんとかなるので、ある意味正しくない文章とも言える。

己の中での「知識」とは例えば解像度を例にとると「350dpi」という表示を見て
・「dpi」部分が解像度の単位であり「dot per inch」の略である
・1inchの中に「350」個のドット(dot)が並んでいる解像度である
・「ppi」(=pixel per inch)も同じく1inchの中にピクセルがどれだけ並ぶかの単位である(ただしdpiと同じではない)
・正直グレスケ原稿の600dpi(もしくは2値原稿の1200dpi)が我がiMac 24inchには処理的な意味でしんどい
とかそういうことを全部通り越した上で「ああ、解像度な」と理解すること。

「情報」とは上記で箇条書きにした、「知識」を紐解くための一つ一つの要素に過ぎない。
あくまで個人の感覚の問題なのであまり気にしないで欲しいが、つまり「情報」をたくさん持っているからといってそれをすべて正しく理解してつなぎ合わせて活用できる「知識」として持っているかは、また別の話である。

人生に赤ペン先生が常に欲しい。創作活動においては、特に。
世の中でこの赤ペン先生の側に立つ人々は須らく尊敬する。
多少なり聞きかじりの史実に沿った創作をやっている身としては、考証や裏付けや資料の横断による検証がいかに大変かよくわかるので。

個人的には二つ以上の異なる資料から同じ結果が得られない場合、「ソース不明」の扱いに分類しているので、おおよそすべての妄想が「ソース不明(一箇所のみ)」に分類されてはいるのだけれども。
この姿勢は、資料となるものを残してくれた全ての人類や環境や歴史に対しての経緯だと思っているので、傾聴姿勢を保って拝見・拝読・拝聴したい。

果たして11月までに118Pの同人誌が出せるか、という話の続きのような意識で書いています。
でも、118P分なんでもできるしなんでもやっていいと思うと素直に興奮して来ます。

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