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大森の歴史と成り立ち「色気と田舎くささの町 大森」

東京の南、大田区と品川区の狭間にある「大森」。よくどこにあるの?と聞かれますが、大森駅は品川駅から2駅、京急線も近く、羽田空港まで電車で20分ほどで着く、移動しやすい場所です。中心となる「大森駅」は、新橋〜横浜間開業の4年後に開業した非常に歴史の古い駅で、単線駅としては、乗降客数が世界一(多説ありますが駅長さん情報です。)のたくさんの人が行き交う場所です。

歴史的には、エドワード・S・モースが大森貝塚を発見したことから、日本考古学発祥の地とも呼ばれています。

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大森には大きく、山王エリアと海岸エリアがあり、山王エリアは、山の王様とあるように、高台を有す地となっていて、かつては文化人や実業家、政治家の邸宅が並ぶ住宅地で、今でもその名残が残っています。そんな山に対して、地獄谷と呼ばれる(聞いた話では飲むと酔っ払って上がれなくなるから)、昭和の香りプンプンの山王小路飲食店街があったり、ジャーマン通りと呼ばれるドイツ学園があったことに由来する通りがあったりと文化や国際色も残しつつ、庶民的な場所も自然もあったりと、一言では言い表せない不思議な魅力、パワーがある場所です。

駅の向かい、海岸エリアは東京湾に近く、かつては海苔の養殖や京浜工業地帯の一角も担い産業の発展、さらには旧東海道の近くで、芸妓を置く大きな料亭が立ち並んでいたということで、有名な料亭があったり、芸妓置屋があったり、不思議な町です。

そんな、山あり、谷あり、海あり、歴史あり、地獄ありと有名な観光スポットはなくても、多様な顔を見せる町というのが大森、山王です。

そんな歴史がどうやって出来上がったのか、それをまとめてみました。

1)明治以前

大森(荏原郡)は、明治9年にエドワード・S・モース博士が発見した「大森貝塚」にも示されるとおり、古くから人々の暮らしが営まれていた地でした。

江戸時代は農漁村で、東京湾は遠浅で波が穏やか、塩の満ち引きがある、多摩川から豊な栄養が流れてくる事で海苔の産地として知られ、さらには、古代から交通の要所で「新井宿」と呼ばれるほど、「東海道」沿いにあったため人馬の往来でにぎわいました。

また、「新井宿義民六人衆の墓」がありますが、これは江戸時代にかんばつや水害が続いたにもかかわらず、重税で苦しむ農民を代表して、訴状を領主に提出して年貢減免を願い出たものの却下され、将軍・徳川家綱に直訴することとなり、代表6名が江戸に赴きましたが、直訴する直前に密告によって捕らえられ、延宝5年(1677年)に6人全員が斬首され、それを密かに埋葬した墓だと伝えられています。民衆が幕府に直訴するというのは、大変珍しい事件だったようです。

ちなみにですが、今も物件などに残る「木原山」の名。これは上記の領主が木原氏だったということに由来しています。

そんな牧歌的な町も、文明開化、鉄道開通により町がガラッと変わっていきます。明治期から大正期の大きな流れは下記になります。

大森に切っても切れないものが「鉄道」だと考えています。

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2)明治時代

明治5年に新橋〜横浜間で鉄道が開通すると、その鉄道関連の技師たちの休息所を建設して置いた関係で、明治9年に大森駅が開通します。
ちなみに、近隣だと、蒲田駅が明治37年(28年後)、大井町駅が大正3年(48年後)と大森駅はだいぶ早い時期に駅ができていたことがわかります。(ちなみに渋谷駅、新宿駅はともに明治18年(9年後))

ちなみに、エドワード・S・モース博士が「大森貝塚」を発見したのも明治9年。文明開化から約5年で鉄道が開通し、それが様々な文化を生み出すいう凄まじさを感じますね。この鉄道開通に大きく関わったのが、のちの大森に別荘を持つ、伊藤博文・井上馨だったりします。

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その後、新橋や横浜で事業を行う人たちや、政治家・外国人たちの別荘・住宅地として発展します。目先の馬込エリアの牧歌的な風景と高台からは、海が近く、梅がきれい、つまり風光明媚であったこともあり、その価値を高めていきます。

明治20年には東京で最初の海水浴場が大森海岸(通称:八幡海岸)に出現。当時海水浴場は大磯海岸にしかなかったので、東京近郊の海水浴場として大森海岸の名は有名になっていきます。 さらには明治22年、「大森射的場」が、本郷向ヶ丘から移転され、敷地内には会員家族用のテニスコートも設置され(大正12年)、別荘地としてのさらに発展していきます。

そこから10年後には、大森町の先に東京23区最古の温泉と言われる「森ケ崎鉱泉」付近に温泉宿が出来上がり、保養地、臨海行楽地として栄えます。

今で言う、熱海や湯河原のようなイメージでしょうか?この大森海岸に当時多くの人がこぞって集まるようになり、その流れで料理屋が大ヒット。その流れで、芸妓置屋が開業し、花柳会への流れとつながっていきます。明治末には芸者を置く、旅館が十数軒も出来、大正になるとさらに増えていき、多くの文士が執筆なのか、一夜の清遊なのか、遊びに来るようになっていきます。

3)大正期

大正1年、東京でも本格的なホテルが珍しい頃に、「望翠楼ホテル」が出来上がります。各室バストイレ完備の、天井高い洒落たホテル。ホテルをきっかけに、様々な文化的交流が始まる。ここには龍子記念館でおなじみの川崎龍子(日本画)の姿も。このような形で文化的交流を育むコミュニティが出来上がってきます。

そして、大正12年9月1日に起きた「関東大震災」 。
・勤労者を中心に郊外へ移住機運高まる(郊外とは山手線の外側)

・文士や芸術家も例外ではなかった

・特に文士や芸術家が多く集まった街を後世「文士村」と呼んだ

それ以前に住んでいた、尾崎士郎、宇野千代夫妻が様々な人たちを呼び寄せ、交流が始まります。交流は、酒を飲みつつの文学談義に始まり、ダンスパーティーに麻雀、さらには恋愛。その中心にあったのが、尾崎士郎宅で、たくさんの人が集まり、情報が集中・誇張伝達されるため「馬込放送局」と呼ばれた。

例えば、ここに居た文士で言うと、萩原朔太郎、川端康成、室生犀星、山本周五郎、北原白秋など様々なジャンルを超えた、文士や芸術家が集まり、色々なコミュニティを形成していった

特筆すべきは、世界でも珍しい女流作家の活躍。この時代、多くの女流作家の活躍が見られるのは世界でも英国と米国を除いては日本、しかもこの馬込文士村だけであるそうで、宇野千代のほか、村岡花子、柳原白蓮、さらには、その奥さんたちもサロンを形成していました。

さらに関東大震災によって、例えば亀屋、白木屋、不二家などの銀座に本店を置く店の支店も多く設置され、大森はますます文化的発展を遂げていくのです。

3)昭和 戦前

世の中が戦争へと向かっていく中、昭和6年、東京飛行場(羽田)開港。この羽田というのが1つキーで、ここから戦闘機を飛ばすために、大田区では軍事工場が増えていきます。大正6年に大森工場ができた「東京瓦斯(ガス)電気工業」が有名でした。

東京瓦斯電気工業のエリアは幅広く、今の西友・ベルポート・イトーヨーカ堂あたりを含む、大きなものでした。戦中空襲で大幅にやられたものの、戦後には、ここで培われた技術が戦後の大田工業地帯を蘇らせ、ひいては技術立国・日本の礎となりました。

さらには、もう1つ戦後に大きな影響を残すのが、下記の地図にあるように、戦時中の線路沿いの家屋を取り壊す措置です。軒並み取り壊されたのがわかります。(ご提供者:塩川益賢さん)

こちらが昭和9年。

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そして、こちらが昭和19年。

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線路沿いが「疎開空地」となっているのがわかります。

そして、忘れてはいけない大事な歴史として、現平和島は捕虜収容所として戦中利用されており、その流れで大森海岸沿いの料理屋などがアメリカ兵が集まる場所へとなっていきます。この辺りは、小関智弘さんの「東京大森海岸 ぼくの戦争」がすごくよく伝えてくれます。大森の人たちはとても丁寧に接していた様子が描かれています。

4)戦後

戦後の大きな象徴と考えているものが2つあります。

1つ目は、先にのべた工業エリアの発展。現イトーヨーカ堂のあたりに「アサヒビール」の大森工場が建設されます。昭和37年(1962年)の5月東京大森工場が完成。敷地面積4万㎡、総工費60億、生産能力9万KL。
ビール工場としては世界でも稀な立体的構造(7階建て)、省スペースを図った都市型の工場でした。

昭和62年3月スーパードライ発売、発売当初は当工場のみの製造だったが、爆発的ヒットにより全国の工場で生産が始まる。この大森で生まれたのが「スーパードライ」でした。平成14年(2002年)、操業開始以来40年が経過した東京工場は設備の老朽化が進んでいたため、その機能を神奈川工場に移転しました。

これは一例ですが、いすゞ自動車の工場など、京浜工業地帯の一画を担いました。

そして、もう1点目は、取り壊しのあった線路沿いはヤミ市として、発展を遂げ、その流れで、カドヤスーパー(桜海老)やダイシン百貨店(リンゴ)などが立ち上がり、商店街も著しく発展しました。

聞いた話だと、当時はレジが札で閉まらないとか、一斗缶に札を収めるために、足で札を踏み潰したとか、、そんな話も聞きました。

5)現在〜

アサヒビール工場の移転に始まり、2016年にはダイシン百貨店、2019年にはカドヤスーパーの閉店がありました。さらに大森駅前の再開発など、大森は色々と変わっていくはずです。

それでも、「文化」「コミュニティ」「多様性」など今多く語られる言葉を抽象的ではなく、現実的に体感してきた町、山あり、谷あり、海あり、歴史あり、地獄ありの町だからこそ、この時代の中で出せる価値があると信じています。

それは題名にあるような「色気」と「田舎くささ」。それはローカルとグローバルの融合、そんな一緒くたにできない面白さ、美しさがそこにはある気がして止まないのです。そして何かしらの未来を紐解くヒントもそこにはある気がします。

6)ちなみに

大森山王ビールの第一弾「NAOMI」と「GEORGE」は、明治〜大正期のハイカラにポイントを当て、谷崎潤一郎の「痴人の愛」から拝借いたしました。

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「痴人の愛」のなかで、ハイカラだと自ら語るほどの舞台になるのが「大森」。話の中に、大森海岸や料亭、洋館などが出てくるが、このハイカラをイメージされるくらい、当時(大正後半)の大森とはとても最先端の場所であったのではないだろうかと考えられます。そんな歴史の中に、未来のヒントがあると思い、これからも色々なものを調べ、後世に多様な形で伝えていければと考えています。

7)最後に

昨年ビール作りのために、大森の歴史をまとめたのですが、それにより様々な町に詳しい方とご縁をいただくようになり、色々と話やアドバイスをいただきました。皆揃って大森を愛する人たちで、大森の歴史を伝えていきたいという意思を強く感じました。

その期待にどこまで答えられるかはわかりませんが、僕のような個人ではなく、全体(システム)として町の歴史を受け入れられるようにビールを通じて果たしていきたいなと考えています。

そして、この資料は永遠に未完成だと思ってますので、ここ間違ってるよとか、この辺掘ると面白いよとか、そんな意見ももらったり、一緒に作っていけたら何より嬉しいなと思いますし、そんな歴史を踏まえて、これからの未来を作っていきたいものです。

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