スキャナー使う方の自炊生活がはじまった(1)

引っ越しを機に思い切って蔵書を物理的に減らすことを決意した。
一般的には寿命まだまだありそうだけど、言うてわたしの蔵書を引き取りたい人なんていないし、古本屋持って行っても二束三文だし、そもそも再読しないかもって本も増えてきた。
早川SFなんかは古書価それほどないと思う。20年前は別だけど、最近の若い人で古いSFを掘り返したい人なんてあんまりいないんじゃないかな。現に神保町行くとサンリオSFが安い棚に並んでたりする。一つのバブルが崩壊したのではないか。
昔のアイテムを欲しい人が減少していくのはレコードやCDなんかでも同じだろうし、人口減少が前提の時代には不可逆なのだと思う。

あと古書価つかなさそうなのは画集。
伊藤若冲の京都国立美術館で開催された画集は一時期だいぶ値段が張っていたみたいだけど、マニアでもなければ今はいろんな画集や解説書が出ているから、そっち見たらいいよね。
古書価つかない割に分厚いし判型も大きいからから場所をとる。こういうのもズバッとPDF変換したい。

一方で気持ち的に電子化しづらいのは文学のハードカバー。
古いガルシア=マルケス『百年の孤独』はとっととPDF化した方がいろいろ便利なはずだけど、レメディオス・パロの黒を基調とした表紙がかっこよくて断裁できない。
あとはナボコフとかゼーバルトなんかも現時点では断裁候補に入っていない。ゼーバルトの白い装丁がかっこいいなと常々思っていて、汚したくないから読むときはカバーはずしています。

二度と入手できなさそうな本も断裁しない。
内田善美のすべて(『ソムニウム夜間飛行記』だけもってない……)とか、大島弓子の朝日ソノラマで出た選集とか、榛野なな恵の古いコミックスとか。今更欲しい人なんていないと思うけど、これらの本を探すために古書店を回って一喜一憂した思い出込みで処分することができない。
コケ関連も経験浅い割に変わった本を持っていて、中でも文学などとはちがうと感じたのが追悼文集。コケ界はそれほど広い世界でもないし、採集や研究などでつながりがあるので、巨星が墜ちた昭和の時代には追悼文集がいくつか出ているのです。
図鑑や論文からは計り知れない研究者の素顔が語られるのは実に興味深い。コケの先生だから落ち着いていて穏やかで、なんていう先入観を覆すことが多々あります。国立科学博物館の重鎮でありながら若くして亡くなられた井上浩先生の追悼文集では、せっかちでヘビースモーカーで海外で苦労されたことが記されている。
こういう文章によってコケという小さな植物を介して人間の関係が浮かび上がってくる。

スキャナーを使って本を裁断することに罪悪感がないわけではない。
今後はそういう気持ちの問題や、具体的にどんな機材でどういう行程を経て電子化しているかを書いていきたい。

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