【私の履歴書】なぜアートで起業したのか?28歳で独立したストーリー②

前にnoteを書いてからもう1ヶ月も経つ・・・・早い・・・。

こんにちは、平山です。今日は私の履歴書の続きを書きたいと思います。前編(幼少期〜就活を経て資生堂入社まで)はこちらをご覧ください。

そんなこんなで念願の大手に入社。親は喜んでいたし、私のどうでも良いプライドも満たされた気がした瞬間。

当時の資生堂は総合職採用=営業であり、入社と同時に地方勤務スタートが決まっていました(今はどうなんだろう?)

大学4年生の終わり、47都道府県ほぼ全てに営業所がある中でどこの地方に配属になるのか全くわからない中、配属になったのは「近畿地方」。

結果的に2010年〜2016年の6年間を縁もゆかりもなかった関西で過ごすことになります。


一生その仕事を愛せるか?

2010年、実家を出たことがなかった私も、恐る恐る関西へ。神戸エリアの配属となり、神戸元町に住むことに。

職種は営業。この時は営業のなんたるかが全くわからず、当時の私と言ったら「なんで慶應出てPOP切ってるんだろう私」とか思って不貞腐れてた。その割にクリエイティブなことしたいと息巻いて、現場の事を考えない突飛な企画持ち出しては見切り発車で実施して、それがかっこいいと思ってたり・・・書いてて恥ずかしいなぁ。すごく思い上がった営業でした。

その後、広報に異動。この頃からなんとなく資生堂にいる自分に違和感を覚えるようになりました。

なぜなら、広報は化粧品の良さを伝える事が仕事だったから。ぶっちゃけ化粧品に愛がないのに資生堂に入社した私は、営業時代よりもはるかに「これでいいんだろうか・・・一生この仕事を愛せるんだろうか・・・」と思うようになります。愛がないような気がするのに、愛を語らなきゃいけないことに罪悪感を感じていたのです。

ぶっちゃけ今なら思うよ。そんなこと言ってないで仕事だからやれと。自分で自分のことくらいモチベートしなさいよと。

本筋に戻ります。そんな感じで違和感を感じてても、この時点で転職は考えてませんでした!広報は自分の自尊心を満たすのに十分な仕事だったし、大手の会社でキャリアを積む事が正解だと思っていたから。代々サラリーマン家庭という環境もあると思うけど、

したくない仕事も頑張ってするべし!「仕事=苦労」だし、苦労しないと偉くはなれないよね!お金稼げないよね!あと、転職ってなんかマイナスだよね!(漠然)

とかいうねじくれたマインドになってましたからね。転職とかマジで頭にもないわけです。

ちなみに・・・今の私は「一生その仕事を愛せるか?」という問いは、不毛な問いだと思っています。「一生愛しあう」と誓ったカップルだって離婚する場合があるのと同じように、環境が変われば同じ仕事だって好きになったり嫌いになったりするからです。そんな問いで余計なストレスを感じる方がナンセンスだな〜と。

でも、いくら先のことは分からなくたって、「今、この仕事を愛してる」という言い切れる気持ちや覚悟はきっと必要だとも思います。思い込みでも良い。常にそういう姿勢で仕事に向き合ってきた人は、パフォーマンスが高いから、結果的に選べる選択肢が広がるよなぁと感じています。

はい、話がそれたよ!

そんな感じで仕事に対して悶々としていた私ですが、この後マインドを変えてくれる二人の人と出会うことになります。

まだ続くか!まとめるの下手くそか!はい、続きます!!!




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