見返し復讐譚の意地悪い快楽

どこでどう植え付けられるのか、人は復讐譚が好きだ。胸がすくのだろう。すべては等価交換、人生はどこかで平等に±0である、そうあるべきだ、そうあってほしいという願望や思い込みの表れかもしれない。

ある程度成功した作家が「昔は馬鹿にされたけど」とか「絶対成功しないって言われたけど」と言いたくなる気持ちはわかる。それが努力の原動力として機能するケースもあると知っている。けれどもあまり格好のつくものではなく、公言するようなことでもないと思っている。少なくとも僕は「見返してやろう」というモチベーションで努力されたという情報が付け加わった絵はあまり身近に置きたくない。視線が定まっていない、どこかでよそ見をしているように感じるから。

しかしそういう「見返した話」は一種の復讐譚の快楽を伴うためか概ね称賛される。そう、快楽なのだ。かくいう僕も絵描きになると決めた頃、既に成功しつつあった同業の先輩に「石垣島なんて行ったら絵の仕事取れないですよ。1000万ぐらい貯金ないと」と言われたのを、いまだに妙なこと言うなあというかすかに嘲笑う気持ちとともに思い出す。これが僕の唯一の見返し復讐譚だけれど、そこにあるのは意地の悪い快楽だけだ。