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2020年の書き初め

新年早々、風邪をひいた。時を同じくして、お気に入りのネックレスのトップが消えた。台座だけが残ったネックレスは心許なく、わたしをひどく落胆させた。

元日に詣でた神社で引いたおみくじは大吉だったのに、三日に厄除で訪れた寺では凶だったわたしの運勢は、今年もきっと波形を辿るのだろう。なんてことはない。いつも通りだ。できればアップダウンが大人しければ嬉しいけれど。

毎年、夏頃から調子を崩しがちな気がする。最高潮ならぬ最低潮に至るのは十一月から十二月で、年末年始を境に一旦ストップするのが常だ。新しい年の始まりに際して、にわかに前向きなエネルギーがあたりに満ちあふれるからなのかもしれない。それとも、年末頃に訪れる冬至が一区切りなのか。

年々、わたしから年末年始らしさが失われている。年末はもっと空気がキリリとしていたし、正月三が日の空気はピントの合わない写真のようにぼやけていたのに。

その感覚が年々薄らいでいるのは、わたしが歳とともに鈍くなっているからなのか、単にテレビを観なくなったからなのか。この年末年始に観たテレビはといえば、民放で年末にやっていたエジプトの棺の中身についての番組だけだ。地上波民放らしい煽るような予告からのCM、の繰り返しに辟易しながら、なんだかんだと最後まで視聴した。

今ある時間と自分との間にズレを感じるのは、年末年始だけではない。ここ数年、どんどん四季の流れと感覚とが乖離している。流れに飲まれないよう、息継ぎを何とかしながらもがいているうちに、いつの間にか一年が経つ繰り返し。春秋だけではなく、夏冬も本当に過ぎ去るのが早い。

子どもの頃の時間の流れは、今もわたしのなかに残っている。だからこそ、今との違いがくっきりしていて、違いに頭がくらくらしてしまうのだ。

地に足をつけていたいのに、強風にあおられて足が少し浮いているような感覚。右左と足を動かしてはみるけれど、足は手応えなく空を切る。まさに空回り。

地に足をつけて、地面の固さ、ぬかるみを足裏に感じていなければ、確かさが希薄になってしまう。確かさがないわたしは、ひどく脆い。弱い風にもすぐ足もとを掬われそうになってしまう。

それなのに今のわたしときたら、ベルトコンベアに乗せられて自分の思う速度で歩けず、流れに乗れたりすっ転んだりしてばかりだ。流れや勢いに身を任せるのもひとつの手段ではあるけれど、悲しいかなわたしは波を乗りこなすのが下手なのだろう。そもそも、自分のメンタルの波に乗ることすら、未だにままなっていないのだから。

2020年。今年もどうにかこうにか生きていかねばならない。多少遅くなってしまっても構わないから、確かな地面を感じて生きていけたらいいなと思う。

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