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ハイエナ、もとい金魚のフン

誰かと親しくなりたいと考えるとき、それは何が理由だろうか。

わたしは、あえていうならば「この人、楽しいなあ」「考え方がおもしろいなあ」「気が合いそうだなあ」「もっと話を聴きたいなあ」といったものが理由。結局のところ“直感”なのだけれど。

そこに特に損得感情は働かない。いってしまえば、親しくなりたい人は一緒に時間を過ごしたいなあと思える相手なわけで、それは相手との時間が心地いいからだ。その「心地よさ」がメリットになるともいえる。

不快にさせられてばかりの相手とは、一緒にいたいと思わない。それをデメリットだと考えれば、損得感情で選んでいることになるわけだけれど。


これから書くことは、人によっては「何もおかしいことではない」ことで、わたしが甘ったれだということにもなるのだと思うのだけれど、わたしは損得感情が透けて見える好意が昔から苦手だ。

たとえば、学校生活。
「この子と仲良くしておいたら、クラス内で安泰でいられる」「疎外されずに済む」など。

わたしが小・中学生の頃は、スクールカーストなんて言葉はまだ生まれていなかったし、そこまで殺伐としたものも感じてはいなかったけれど、やはりクラス内で中心的になるグループと目立たないグループはあって、クラス替えのときには何らかの計算を持って動いている子もいたな、という覚えがある。

わたしは中心的なグループにいるということはなく、むしろ特定グループにいないタイプだったのだけれど、おしゃべりな性格ゆえに目立たないわけでもないタイプだったのだと思う。

グループに縛られずに、うまーく渡り歩いているタイプだったから、目立つ子とも、目立つことを避ける子とも関係性は築いていた(好きだなあと思った子と自由に関係性を築くためにグループに入りたくなかったのだから、当たり前の流れなのだけれど)。

そんなタイプだったからか、ほとんどの場合で、打算的な子に巻き込まれたことはなかった。それでも何度か、「この子はわたしじゃなくて、わたしの背後にあるあの子・何かを見ているな」と気づくようなことがあった。

たいてい、そういう子は猫なで声で本音があまり見えないような物言いをするタイプだった。当たり障りないことをどこででも言うから、その場が陰口大会になれば一緒に陰口を叩くし、見え透いたお世辞も言えてしまうタイプ。わたしは、その手の子のことが信頼できなかった。(ほかの場ではわたしの陰口言っているんでしょ?)

この手のタイプの子に近づかれると、わたしは曖昧に笑って距離をとるようにしてきた気がする。それは、近づかれた相手がわたしでなくても。側で見ていても、「うわー、あの子はその手のタイプなのね」とわかるもので、「近づくな危険」という判断になるのだ。



これは、大人になった今でも強く感じる。ママ友関係でも、直感で近づかない人を察している気がする。気がする、というのは、この判断は無意識に近いものだからだ。


仕事では、さらにかもしれない。この一年、さまざまな人たちに、Twitterを始め、交流の場で出会ってきたけれど、「今後もぜひ」と思えるのは、そういう「うわべ感」がない人だ。

初対面の場合もほとんどの中、本音で話している人ばかりなはずがないだろうと思う人もいるだろう。本音と建前なんて、わたしだってふつうに使っている。関係性をスタートさせるため、円滑にコミュニケーションをとるために、建前が悪いことだとも思わない。

だから、繰り返すけれど、これはわたしの勘だ。言葉のかけ方、話の仕方だけで判断しているに過ぎない。

名刺交換が盛んに行われているとき、とにかく名刺を交換することに注力することが、わたしにはできない。営業スタンス全開だけでぐいぐいこられるのも苦手だ。

目の前にいる相手とは初対面でできうるコミュニケーションを取りたいし、その上で、「あ、いい」と思ったら、その縁が繋がってくれないかなあ、と思う。その先にお仕事ができることになれば万々歳だ。

仕事関係の付き合いを完全にドライにできるという人もいるから、これはわたしの場合の話だ。割り切れる人から見れば、「何を言ってるんだ」と思われるのだろうなとも思う。ただ、わたしは人間関係を築きたいと思えないとダメなのだと思う。これは、友達になりたいのではなくてね。……難しいのだけれど。


そういうわけで、とにかく仕事に繋げたい一心だけで人に近づいていく人が、わたしは苦手だ。ふつうのやりとりはするけれど、積極的に自分からコミュニケーションを深めていくことはない。

幸い(?)、わたしには何ら影響力がないから、そうした思いを持って近づいてこられることはほぼほぼないけれど、「その人」に興味があるわけではなくて、「その人が持っているもの」に惹かれているように見えるなあ、という人は、やっぱり見ていて「うーん」と思う。その人にとってはビジネスなわけだから、ガツガツいくことは間違いではないのだけれど。

ただ、やり方や頻度、伝え方を工夫しないと、下手をすればハイエナのように周りや相手から思われてしまう危険性があるのではないかな、とは思う。

あとは、金魚のフンとか。コミュニケーションにおいて、相手に喜んでもらえることを言う、伝えることは間違いではない。けれども、誰が相手でもとにかく褒め言葉を乱発したり、その人のことを何でもかんでも褒め続けたりするのは、度を超えている。相手にもただのお世辞の乱用だと捉えられてしまう気がする。その褒め言葉の説得力さえもあやしくなってしまうと思うのだ。


ビジネス全開でいけなくても、繋がるご縁は繋がる。実際にお仕事に繋がったこともある。

虎視眈々と人脈を狙うことはできない。たとえお仕事の相手でもドライになりきれない。でも、それがわたしのある種「メリット」だと感じてくれる人がいたら、とてもうれしい。


「仕事がきつい・難しい」のと「職場の人間関係」とでは、100パーセント「職場の人間関係」を重視するタイプできたから、昔からそういうタイプなんだなあ。(「え、人間関係なんかスルーできるじゃん!」と言われたことがあり、「え!?」と驚いたことがある)



#エッセイ #コラム #人間関係 #考えていること #ライター #わたしのこと


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