井の中の蛙、裸の王様
「井の中の蛙になるな」
父親によく言われてきた言葉だ。
わたしは四月生まれだということもあってか、幼い頃はクラスで「できる」ことが多かった。言語能力の発達が早いタイプだったから、先生との意思疎通もスムーズだったし、言われたことの飲み込みも早かったのだろうと思う。同級生に教える側に立つことも多かったし、「頼りにしてるね」と先生に言われることも多い、いわゆる「優等生タイプ」の子どもだった。
もしかしたら、父はそれをわたしが鼻にかけていると感じたのだろうか。天狗になっていると危機感を抱いたのだろうか。とにかく、父は「若菜がいる世界なんてまだまだ狭いんだから、井の中の蛙にはなるな」とわたしに言った。
教育パパだったこともあり、高校はより偏差値の高い学校に行くように言われていた。その理由のひとつは、「より考えが深い人に出会える」だった。
今のわたしは、別にどんな学校に行っても、考えが深い人には出会えただろうと思っている。学歴はひとつの目安なわけで、それがすべてではないよなあ、と今まで出会った尊敬できる人を思い浮かべては思っている。(ただ、分不相応なレベルの高校に潜り込めてしまったがゆえに、成績面で頭をがーんと打てたのは、結果としてよかったのかもしれない)
どんな世界であっても、広げていくと、自身の薄っぺらさや思考の浅さを感じる機会は何度も出てくる。そのたびに、わたしは相手の思考力に脱帽し、自分の浅はかさに情けなさを感じてきた。
わたしは、自分のことを無知だと思っている。どこかで、チクチク刺すような小さなコンプレックスがあるのだと思う。
それは、わたしが大学を中退したあと、どこかの企業に正社員として属すことがなく、今に至っていることが理由のひとつだ。社会を知らないんだろうという思いは、わたしのなかにずっと巣食っている。
だからこそ、いろいろな物事や知識に対して、「知りたい」「学びたい」とも思うのだろう。そうすることで、チクチク感を減らしたいのかもしれない。
井の中の蛙状態にいること自体は、本人が幸せならばいいと思う。けれど、井の中の蛙であることを自覚せずに天狗になってしまったら、裸の王様になってしまうのではないかと思う。
卑屈になる必要はない。「知らないことがたくさんある」「考えが不足することはある」という意識だけは、これからも持ち合わせていたい。特に歳を重ねていくと、それなりに自分の中に蓄積されてきたものができるし、自負だって今よりも生まれるものだ。でも、そのときこそ、自分を肥大化させず、謙虚さを忘れないようにいたいなと思う。(わたしは我が強いものだから、たぶん父はこういうところを心配したのだと思う)
裸の王様になることは、避けたいなあ。
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