見出し画像

あの人がまだ死んだことにならない

自分のなかで、誰かが死ぬときっていつだろう。

「忘れられたときが本当の死だよ」という言葉を見聞きしたのが一体いつ、何であったのかは憶えていないのだけれど、それが本当の死なら、いつまでもその人はわたしのなかで死ぬことはなくなる。そういった類の記憶力が、時に厄介になるほどあるタイプだから。

でも、それは「心のなかで生きている」わけであって、肉体的な意味ではその人が死んでいることを、わたしはきちんと理解している。


ただ、この「理解している」は朧げになりがちだ。

お通夜やお葬式という「お別れの場」に出向いて、はじめてわたしのなかでその人は亡くなったことになる気がしている。

受け入れたくないからなのか、お別れの場に行けなかった人は、いつまで経ってもわたしのなかで亡くなったことにならない。いる前提で考えていて、ふと「あ、違う。亡くなったんだった」と思うこともある。


そんなわけで、すでに10年前くらいになるけれど、当時、通夜葬儀に行けなかった曽祖母は、わたしのなかで未だに亡くなっていない。

遠方であったこと、途中から付き合いがほぼなかったこと、アルバイトなどの関係、少人数での通夜葬儀であったことを理由に、親や祖母に「行かなくていい」と指示されたため、正確には「行かなかった」のだけれど。

直接的に関わることがなく、誰かの通夜葬儀でしか会わなかった親戚のおじいさんが亡くなったときも、わたしは参列できていない。だから、まだどこかで笑っているような気がしている。

死んだことにならないことの一番大きな点は、思い出しても悲しくならないことかもしれない。

もう会えない、というよりも、「最近長らく会えてないなあ」という感覚に近いので、悲壮感が生まれにくいのかもしれない。

あの人も、あの人も。
わたしのなかでは、まだ亡くなっていない。



#エッセイ #コラム #ブログ #日記 #考えていること #編集note

お読みいただきありがとうございます。サポートいただけました暁には、金銭に直結しない創作・書きたいことを書き続ける励みにさせていただきます。