小説「枯らす少年と死なずの少女」二

  二 鏡面

 昼間は酷い暑さだった。
 こんな事なら空が青くならないで、ずっと薄明かりがいいのに。
 胸中にそういった思考を浮かべて、少年は夜空を仰いだ。
 月と星が遺骸地帯に居る少年をうっすらと浮かび上がらせる夜は、ぎらぎらとした群青一色の昼間にも、太陽が地平線にしがみつく夕暮れ時にも無い、繊細な極彩色の芸術を描き出す。
 少年は言葉にならない感慨を息として吐き出して、ゆったりと腰を下ろした。
「き、れい」
 堪え切れず口から零れ出した声に自分で微笑み、少年は仰向けに寝そべった。
 地面が視界から消えて、厚い襤褸布ぼろぬのに包まれた足の裏が自由になると、少年はまるで宙を飛んでいる様な気分になった。
 恐怖心と高揚感が競り合って、どちらも勝たない。
 不思議な心地良さを胸に、少年の意識は眠りの底へと沈んで行った。

 朝陽に睫毛まつげを焦がされた少年は、瞼を開けて、頭上に昇りゆく太陽を見た。
 仰向けのまま薄青い空を見渡して、夜が終わった事を知った少年は、のそのそと立ち上がる。
 体を伸ばして軽く動かし、今日向かう先を目視と直感だけを頼りに歩き出す。
 宛など無い。こうあって欲しいという望みも無い。人の気配が一つも感じられない世界で、少年が足を動かし続ける理由はただ一つ。
『何処かに誰かが居ないか』
 そんな、薄靄うすもや程度の願いだけだった。

 夏という言葉を、照り付ける陽光のわずらわしさによって思い出した少年が、太陽を憎みながら歩くこと十数日。
 少年は眼前に水平線を見た。
 穏やかに繰り返す波音なみねに乗って、嗅いだ事の無い『潮』の香りが届くと、少年は歩速を上げて砂浜を踏む。
 しゃくしゃくと音を立てる砂浜におっかなびっくりと足跡を付けて、少年は初めて『水』に触れた。
「つめたいっ」
 足先で感じたものを鳴き声として発して、少年は逃げる波を追い掛け、しかし突如として反撃を食らう。
「うわぁっ!」
 不意に打ち寄せた波の冷たさと、海へ引き寄せる力に驚きの声を上げて、少年は後退あとずさった。
 触れたいのに怖い。
 い交ぜの感情を込めて、じとっと。寄せては引く波達を睨み、それを横目に歩き出す。
 恨めしい波からは目を離し、ゆらゆら揺蕩たゆたきらめく海面を眺めて、やがて、水平線を辿って左に視線を動かすと、遠く霞む先に指を三本立てた様な緑の山々を見つけた。
 あそこに行こう。とは、言葉では無く思惟しいとして。
 好奇心と期待を胸に浮かべたまま、少年は海岸を行く。
 岩場に差し掛かり、二歩目で足を滑らせた少年は、浜辺から離れて平地に移った。
 少年にとっての海は『綺麗だけど嫌なやつ』という所に収まった。

 波音を傍らに数日。
 歩幅の狭い少年は、ようやく入江の突端に辿り着いた。
 その入江は豊かな大河が海へと帰る出口で、入江の突端とは言ったものの、人の目線からすれば広大な水流がただ横たわるだけに見える。
 近寄っても枯れるどころか減りもしない水量に、少年は眉を八の字に寄せてうめき声を漏らした。
 少年は歩いて来た荒野を振り返り、右手の大河を眺め、残る二方向に目を遣り、結局、河沿いを流れに逆らって歩く事にした。
 緑に溢れていた河沿いを歩き、しばらくすると複雑に隆起した丘陵地帯に出る。
 丘に差し掛かろうとして、向かう先や数十メートルも伸びる枯れ野の付近に太い木が生えていないか警戒した少年は、一度安全を確信した正面に意識が向かなかった。
 およそ五十メートル先、灰色に染まりきった小高い丘から頭を見せて、少年を見るなりこぼれんばかりに目を見開く少女に、少年は気が付かない。
「君! 人間!?」
 突然響いた声に少年は飛び上がり、体勢を崩して尻餅をついた。
「だ、大丈夫!?」
 驚愕で思考が止まってしまった少年の元へ、遺骸地帯を軽やかに蹴り出して少女は駆け寄る。
 少年の傍らに膝を着いた少女は白銅色はくどういろの髪を揺らし、そっと少年の背中に手を添えた。
「こ、言葉、分かるかな? 怪我はしてない? この灰色のとこ、ずっと歩いてきたの? あーー、ごめん、急に話しすぎだよね、だって久々で、ほんとう、びっくりしてて……」
 早口でまくし立てられる少女の言葉の一つ一つを、少年は理解していた。
 しかし、返す言葉が出て来ない。
 理解出来る言葉たちよりも、少女の絹の様に流れる髪や、陶器さながらの滑らかな肌や、整った顔立ち――それらよりも、少年に接近し、触れる事の出来る生き物が居る事への驚きが止まない。
 だから、少年の口は、意識と無意識の狭間で言葉を紡いだ。
「なんで……しな、ない…………」
 か細い少年の声を聞いて、少女の手がぴくりと跳ねたのを、少年は背中で感じた。
 硝子玉がらすだまの様に透き通るあおの瞳が、少年の黒い瞳を見詰め返す。
「大丈夫、大丈夫だよ。生きてるから。だから、落ち着いて。私も色々話しすぎちゃったよね、ごめん」
 そう言って少女は笑い、立ち上がった。
「立てる?」
 言い乍ら差し伸ばされた右手を見て、少年が恐る恐る左手を持ち上げると、少女は少年の手を迎え入れる様に掴まえる。
 少女に引っ張られて立ち上がり、少年はぼんやりと視線を彷徨さまよわせた。
 百メートル以上先に、絶えず流れ続ける大きな河があり、樹木の無い周囲は死んだ野原を除いてまばゆい程の緑に染まった丘陵地帯がうねる。
 風景は変わらない。
 だが、目の前で困った様に笑う少女だけが、目覚めてからの幾日、いや、何十日か、それ以上を経た先の、真新しい体験だった。
「私、この先の山小屋に住んでるの。お腹減ってない? 家でゆっくりして、話を聞かせて欲しいな」
 沈黙したまま頭を巡らせる少年に声を掛けて、少女が歩き出す。
 少年は繋がれたままの手に引かれて、一歩、二歩と進み始めた。
「私……あー、えっと、ずっと独りで暮らしてたからさ、まえ……前は人が居たんだけど、その…………はぐれちゃって。独りに、なったの」
 少女の声を聞き乍ら、少年は自分よりも少しばかり背の高い彼女を見上げる。
 拳一つ分くらい背の高い彼女は、よどみ無く歩く足とは裏腹に、手の平を汗で湿らせていた。
 震えているのは歩く振動か、それとも少年自身のものかは分からない。
 だが、少女もまた驚き、緊張しているのだと悟った少年は、自分からは動かず、少女が為すままに任せる事にした。
「まさかまだ生きてる人が居るなんて思わなかったからさ、今朝起きたら遠くに黒っぽい色の道が出来てて、アスファルトかと思って、ほんとにびっくりしたんだから……って、あ。――アスファルトって知ってる?」
 少女の言葉を聞いて、少年の脳裏には最初に目を覚ました『枯れない物』で溢れる場所の記憶が蘇った。
 直線状の岩に似た物体で溢れたあの場所は、かつて街だった筈だ。
 高層ビル、アスファルト、道路標識、街灯、車、ガードレール、看板、人、人、人。
 其処そこに居た事はおろか、見た事も無い筈なのに、少年はそれを知っている。
 騒々しくて、空気が汚れていて、見ず知らずの人間同士が集まり、それぞれが己を中心として生きていて、豊かな場所。
 少年は知っているのに知らないという奇妙な感覚に眉をしかめて、振り返った少女の目を見た。
「まち、いたこと、あるの?」
 辿々しく問い掛けると、少女はくすりと笑った。
「廃墟街なら。でも元気だった頃の街は行った事無いなぁ。私と一緒に居た人達がよく話してたけど、可笑おかしいね、誰も行った事も住んだ事も無いんだよ」
 楽し気に寂しく笑う少女の横顔を見ながら、少年は死んだ丘の頂を踏む。
 くしゃりと舞った灰が、風に運ばれて空気に溶かされた。
「……あれ、来た時は丘一つ分だったのに」
 呟き、少女は辺りを見回す。
 きょろきょろと右へ左へ顔を向けて、少年の左手が強く握り込まれる。
「早く行こう。なんかおかしい」
 早口に言って、少女は灰を蹴った。
 ぐんと引かれる左腕に追い付くく少年も走ると、目の前の丘が急速に彩りを失って灰が山肌を転がる。
「な、なんでっ」
 少女が悲鳴じみた声を上げて、少年はようやく少女の言わんとする事を悟った。
 それ故に、少年は少女の手からり抜ける様に左手を解く。
 声を上げて驚き、振り向いた少女と目が合って、少年はそろそろと後退あとずさった。
「君、此処ここは何か変だよ、危ないから早く行こう? ね?」
 心配そうに少年を見詰めて潤む目が、少年の胸を締め付ける。
 呼吸をしている筈なのに苦しく感じる胸を手で掴んで、少年はかぶりを振った。
「ごめ、なさ……ぼく、わるいから……」
 少年の言葉に少女はわずかに首をかしげて、少年のもとに歩み寄る。
 それと同じ数だけ、少年も後退あとずさった。それでも、距離は縮められていく。
「どうしてそう思うの? 君は何も悪くないよ。だから――」
 少女が話す中、少年は遠くに見える灰と緑の境界線を指差した。
 少女はやや遅れて少年の指先を辿る。
 少年は、少女が境界線を振り向くのを待って、息苦しい胸に空気を送り込んだ。
「あれは、ぼく」
 少年に背を向けたまま、少女はその言葉の意味を悟り、目を見開いた。

つづく

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