小説「枯らす少年と死なずの少女」三

  三 陰影

 白銅色はくどういろの髪が揺らめいて、驚愕を露にした少女の顔が少年に向けられる。
「どういうこと…………?」
 少女の問いに、少年は俯いた。
 死んだ緑、しおれた木、崩れた魚、少年の目の前で姿を変えた者達が、何度も何度も目の前に現れては消えて、少年の胸を一際強く締め付ける。
「ぼく、ぼくがね、あるくと、みんなしんじゃう。みどりいろも、さかなも。でも、ひとがいて、だいじょうぶなのに、やっぱりしんじゃう。おんなのこも、しんじゃう……」
 目覚めてから、こんなに長く声を上げたのは初めてだった。
 少年の息は弾み、それとは違う理由で乱れて、涙が止まらない。
「やっぱり、ぼくがころした。ぼくは、いきてちゃいけないから、きが、おしえてくれたのに――さびしいよ……」
 胸のうちを吐き出すと、少年は立っていられなくなった。
 突いた膝が灰を巻き上げて、少年を檻の様に包み込む。
 それを掻き分けて、少女は彼を抱き締めた。
 突然の出来事に驚いた少年は、少女を押し返そうとするも叶わず、両腕の行き場を失ったまま声を上げて泣いた。
 少女はただ、静かに少年を抱き留める。
 ぼさぼさの少年の髪を優しく撫でて、時折、少年の背中をそっと叩き、それから、強く抱き締める。
 どれ程の時が過ぎたのかは、少女の温かな体で視界を塞がれた少年には分からない。
 ただ、触れ合う体から、少女が言葉を紡ごうとする気配だけは、彼女と溶け合ったかの様に分かった。
「…………大丈夫、大丈夫だよ……。私はね、死なないの。寿命が無くて、食事も別に必要無くて、動いてるけど、生きてない。だから、大丈夫だよ」
 そう語る少女の手の平は震えていて、少年はまた涙を零した。
 本能的なまでに込み上げる自分の為の寂寥せきりょう感にではなく、共感できる孤独を持つ少女に対して。
 深く理解は出来ずとも、彼女の孤独を察する事が出来た少年は、所在無く垂らしていた両腕を上げて、少女を抱き締め返す。
 少年の耳の裏に掛かる息が、少女の安堵を伝えた。

 しばらくして、抱擁を解いたのは少女からだった。
 少年の肩に左手を置き、右手のほっそりとした指で両の目元を拭った少女は、照れ臭そうに笑ってから脚に力を込める。
「これから、どうしよっか。君の周りがこうなっちゃうなら、私の家にも入れないだろうし…………ねぇ、今まで雨はどうしてたの?」
 不意に浮かび上がった疑問を口にする少女に、少年は首をかしげてから晴れ渡る空を見上げた。
「あめ……」
「そう、雨だよ。空から水が落ちてくる日。傘……は差せなさそうだけど、雨宿りとか、そういうの」
「あめ、なにもしないよ。ずっとあるいてた。とおくでぱたぱた、さぁさぁ、きれいだから」
「と、遠く……? 顔とか体とか、濡れるでしょ? この灰もグシャグシャになって歩き辛かったんじゃない?」
 少女の言葉を上手く理解出来ず、少年は何度も首をひねる。
 それから、砂浜や水量の変わらない河を思い出して、それらが少年の頭の中で並び変わった。
「みずは、うみではじめてさわった。あめは、ぼくのとこまでこれない、から」
 少年の話を聞いて、少女は遠くに見える大河を振り向く。
「そっ……か…………。雨で困る事は、無かったんだね」
 膝立ちのまま寂しに微笑む少女の横顔を見る少年は、その視線を追って大河のきらめきを見詰め、それからまた空を見た。
「あめ、ぼくがころしちゃったの?」
 少年の声に、少女がぎょっと目を剥いて振り返る。
 空を仰ぐ少年はただ、申し訳無さそうに眉をひそめていた。
「ち、違う。そんな事はしてないよ! 雨は……なんて言ったらいいかな…………勝手に雲から落ちてくる物だから、君が悪いことは無いよ。絶対に」
 言い切った少女は少年の右手を両手で包み込む様に取り、少年の純粋な双眸そうぼうを見詰める。
「……ねぇ、こんな状況で、食事はどうしてたの? 海で魚を獲るとか?」
 少女の新たな質問に、少年ははっとして腹に手を当てた。
「おなか、すいたことない。ぼく、うみと、きみと、これにしかさわったことない」
 『これ』と言いながら、少年は自分が身に付けている襤褸布ぼろぬのつまみ、次に地面の死んだ土を指差す。
 生気を失い、崩れ落ちた下草の破片が転がる、乾燥した大地。
 何の事でも無い様に言った少年を見て、少女は泣き出しそうな顔になる。
 少年はそれを見るなり目を大きく見開いて、背伸びをして少女の頭に手をやったり、両腕で強く抱き締めたりして少女の顔をうかがった。
「い、いたい? だいじょうぶ?」
 おろおろと問い掛ける少年に少女はかぶりを振り、少年を抱き締め返す。
「ううん……ありがとう、ありがとう。……よく頑張ったね」
 優しい涙を零し乍ら、少女は少年の頭を何度も何度も撫でた。

 陽が傾き出した頃、二人はようやく歩き出した。
 『放ってはおけないから』と言って少年の手を引く少女に従い、二人は大河をさかのぼる。
「ねぇ、君、名前は覚えてる?」
 灰色の丘陵地帯を歩き乍ら、少女が問う。
 少年はそれに考える素振りを見せてから、ゆっくりとかぶりを振った。
「ない……おぼえて、ないかもしれない」
「そっか……」
 少年の答えにそう呟いた少女は、逡巡ののちに顔を上げる。
「私の名前はね、イーファ。昔、一緒に居た人達から教えて貰ったの。ずっと昔、私達が生まれるよりずっと前の、最初の女の人の名前なんだって」
 少女、イーファの話を聞き乍ら、少年はその横顔を見詰める。
 白磁の芸術めいた端正な顔立ちを見詰めていると、不意にイーファが少年へ顔を向けた。
「だからね、君の名前は、今日からアーダムだよ」
「あー、だむ……?」
「そう。世界の最初は男の人と女の人がいて、女の人がイーファだから、男の子の君はアーダム。…………嫌かな?」
 相槌を打たない少年に不安気ふあんげに問うたイーファに対し、少年は素早く首を振る。
「ううん、いいよ。ぼくのなまえは、アーダム」
「うん! そう! へへ、ありがとう」
 そよそよと柔らかい風が吹き、アーダムとイーファの髪を揺らす。
 丘陵地帯からほんの少しづつ外れて、静かな河辺へと移る二人は、緩く蛇行する大河の先で両岸を繋ぐ白色を見た。
「あ、あれだ!」
 向かう先を指差して声を上げたイーファは、アーダムの左手をくいくいと二度引く。
「あの橋を渡ってしばらく歩くとね、廃墟街があるの! 私はあんまり行った事が無いんだけど、エレナ――私と一緒に居た人がね、よく食料や道具を取りに行ってたんだ」
 イーファが話す内に、二人は一際大きい丘に差し掛かった。
「食料とかはもう無いと思うけど、建物はすっごく頑丈で、千年続く嵐の中でも耐えられるんだって。それは流石に例え話だけど、たぶんアーダムのお家に出来るんじゃないかと思って」
 はらはらと滑り落ちる灰を踏み固めては後ろへ送り、二人は角度のきつい丘を登っていく。
「じゃあ、どうしてイーファは、こっちにいたの?」
 アーダムの問いに、イーファの歩みが止まる。
 持ち上げかけた右足を引きる様に、先へ踏み出した左足に追い付かせて、イーファはぼんやりと中空を仰いだ。
 イーファの頭の奥、姿や顔は思い出せないのに、音の記憶だけが蘇る。
『ねえ、どうして皆で街に住まないの?』
 今と変わらない筈なのに、今よりも幼いイーファの声がして、年嵩としかさの男の唸り声が響く。
『確かに建物は頑丈だ。だが、街には我々よりも先に危険な動物が住み着いてしまってね。建物は譲らざるを得なかったんだよ』
 男が答えて、それから――
「あ…………わす、れてた…………」
 呆然と呟くイーファの傍らに、アーダムが追い付く。
 隣に立って、アーダムはイーファの顔を下から覗き込む様に腰を屈めた。
「おもいだせた?」
「うん……でも九百年も経ってるから流石に大丈夫かな、どうだろう。注意して近付いて危なかったら帰ればいい? だって最近は街に行ってないし、見て見なきゃ分からないよ。危険は承知してる。でも今出来そうなことはそれくらいだし、ケネスがよく言ってたじゃん、立ち止まるよりは何かしなくちゃ、動ける内に思い付くことをしようって、だから――」
 ぶつぶつと早口で独り言を始めてしまったイーファは、アーダムが顔を覗き込んだり声を掛けたりしても止まらない。
 だから、アーダムはイーファの手を握ったまま歩き出した。
 二歩、三歩と進んでも反応が無いので、痺れを切らしたアーダムがイーファの手を揺らすと、大分遅れてイーファの焦点がアーダムに当てられる。
「あっ。あれ、ごめんごめん! 考え事しちゃってた。えっとね、えーーっとぉ…………なんだっけ?」
 照れ笑いで隠し乍ら、イーファが首をかしげる。
 そんなイーファに、アーダムは歩み寄った。
「イーファ、ずっとおしゃべりしてた。でも、はやくて、わかんなくて、しんぱいだったよ?」
 アーダムに言われ、イーファの苦笑が固くなる。
 イーファの視線は、アーダムの瞳からやや癖のついた焦げ茶の髪に移り、その毛先から枯野混じりの景色の彼方此方あちこちへと泳いでいく。
「ごめん……心配させてるよね……でももう大丈夫、うん。今度こそ大丈夫だから」
 遠くを見て話すイーファの視線を追って、アーダムは背後を振り返る。
 複雑に波打つ灰と緑の丘陵地帯と、直線で何十歩ではかないほど幅の広い大河、遠くの白い直線に、そして、黄味がかり始めた空。
 それ以外には何も無く、生き物も見えない。
 だから、アーダムはイーファの言葉に違和感を覚えた。
「ねぇイーファ、だれかいるの?」
 アーダムの発言に、イーファの心は落雷に打たれた様な衝撃を覚えていた。
 顔にも手足の震えにも出さなかったが、数秒の静止がそれを物語る。
 イーファはアーダムの手を強く握り、空いている左手で頭を抑える。
「ううん、居ない……」
「でも、おしゃべりしてたよ。さっきも、たぶんぼくじゃないひと」
 イーファを見上げるアーダムは幼い顔貌がんぼうに偽りの無い心配を浮かべている。
 それが、イーファには苦痛だった。
「ごめん、ごめんね……忘れて……ごめん…………変なんだ、私。ここのところずっと、ずっと」
 そう言って、イーファは歩き出す。
 アーダムの左手をきつく握り締める彼女の右手を、アーダムは優しく握り返した。
「だいじょうぶだよ」
 アーダムの一言を最後に、二人の間には沈黙が付きまとった。

 遠くに見えていた大河を跨ぐ白色は、二人で歩くには広すぎる橋だった。
 黄昏のだいだいと、それが落とさせる影の黒たちの中でもやけに白い大橋の入口に立って、二人はどちらからとも無く足を止める。
「やっと着いた……」
 幾らか疲れた様子のイーファを見上げて、アーダムも頷く。
「どうしよっか、渡る途中で真っ暗になっちゃうよね、きっと」
「……うん」
 橋の先へ目をり、不安気に頷くアーダムの横顔を見たイーファは、次いで辺りをぐるりと見回す。
「うーん……今日のところは……あ、橋の下で休もうか? 焚き火……は焚けないけど、風は凌げるだろうし、二人だから大丈夫だよ、きっと」
 そう言うイーファに従う意志を目だけで伝えたアーダムは、イーファに手を引かれるまま大河方面へ丘を下り、広い高架下に足を踏み入れた。
 夕陽がまだ顔を出しているのに真っ暗な高架下では、肩が触れ合う程に身を寄せたお互いの顔を判別するのが精一杯だった。
「ふふ、野宿になっちゃった。こんなの久しぶりだよ」
 言い乍ら腰を下ろすイーファにならい、アーダムも腰を下ろして死んだ地面と硬い柱に背を付ける。
 広い大橋はそれだけで小高い山の様な四角い柱に支えられていて、柱はもちろん空間が丸々ひんやりとしている。
「ぼくはいつもだよ。そらがみえないの、はじめて」
 アーダムが言うと、イーファは驚きの声を上げる。
「じゃあ、いつもはああいう地面に寝るの?」
「うん。あるいてるとつかれて、あるけなくなって、ねちゃう。おきたらあさなんだ」
 微笑むアーダムに、イーファも柔らかく笑いかける。
「頑張ったんだね」
「うん。いーっぱいあるいた」
 にっと笑うアーダムに吊られる様に、イーファの笑みも深くなる。
「朝になれば橋の向こう側に街が見えるよ。この長い橋を渡ればすぐだから、あと少し、頑張ろう」
 立てた膝に頬を乗せて、イーファはアーダムに寄り掛かる。
 その心地好い重さにアーダムも寄り掛かり、他愛も無い言葉を交わす内に二人は眠りに落ちた。

 六人の背中を見て、すっかり減ったなぁと思う。
 開け放した玄関から一月ひとつきとない距離にまで近付く冬の涼風が忍び込んで、先に出た四人と玄関扉に手を掛ける一人、それから彼の後ろに着く一人が、こちらを振り返る。
「いってきます」
 いつもと変わらない挨拶を交わし乍ら、六人の背中を見た時の感情を思い出して、そこにもう一つ加わる。
 みんな、老けたなぁ。
 何年経っても変わらない私とは違って、陽の光で隠された六人の顔は、日々変化している。
 私はいつも、送る側。
「いってらっしゃい」
 そう答えて、吸い、吐いた息が震えた。

「いかないで……」
 アーダムはイーファの声で目を覚ました。
 いつの間にか離していたイーファの右手を取り、その手を抱き締める様に引き寄せる。
「ここにいるよ」
 イーファが目を覚ましていたのかは分からない。
 けれど、その一言でつむったままの表情が確かにやわらぐのをアーダムは見逃さなかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだよ」
 イーファは再び、静かな寝息を立てる。
 空を覆う橋で太陽は見えなくても、空ははっきりと白んでいた。

つづく

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