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なにもかもあきらめてカレーをつくる日

カレーをつくりました。

料理はしていますが、あまり撮らなくなってしまった。「宿題やったけどもってくるの忘れました」という小学生の言い訳みたいに思われるかもしれない。話が逸れるけれど、この言い訳、好きです。たとえうそで、宿題をやっていなかったとしても、これを信じてもらって稼いだ時間をあてれば大丈夫、という希望的な意志が垣間見えます。それに「宿題やった」と伝えた手前、うそにうそを重ねるわけにはいきません。良心をかけらでも信じるならば。うそをほんとうにする意志を読みたい。「やったけど」には「やる」意志があると思う。

生徒の言いぶんをこんなふうに、いちいち読む先生はさほどいなさそうですが……。教育者志望でもないのに、教育者めいた妄想をよくしています。「先生みたい」と言われることもなぜかある。浅学非才もいいとこなのに。先生にはなりたくない。なれない。

それはともかく。トマトベースの牛肉カレーです。欧風カレーとスパイスカレーの中間くらい。レシピなしのてきとうです。過程も撮影しました。

お肉はジップロックで漬け込み。2日前にヨーグルトなどで。写真に不穏な加工をほどこす。ほんらいこれは、牛の屍肉です。多くの方は現実を見ませんが、そもそも穏やかではありません。この写真は、殺害され、切り刻まれた動物の肉をヨーグルト漬けにするという、みずからの犯した残忍な手口の表現です。贖罪も込めた。ありがとう、牛。ありがとうし。ありがとうさぎ、みたいな。こんばんわに。さよならいおん。

にんじん、パプリカ、たまねぎ、にんにく。説明がなければ、なんだかわからない。にんじんは、フードプロセッサーで細かくしました。お肉の食感をなるべくたのしんでほしいからです。野菜がごろごろしていると、お肉の噛み心地に雑念が混ざります。お肉をワントップに置く。純粋に牛の屍肉を噛み締めてほしい。牛の存在を感じろ。牛を思え。牛を讃えよ。贖罪も込めて。せめてもの供養です。味はどうでもよいのです。

まじめに書くと、わたしは「美味しさ」よりも「心地よさ」をたいせつに考えているなーと思います。食べ物は体内にとりこむものです。するりと馴染んで、違和感なくするするといけるようなものが理想。あら無意識に食べちゃった、くらいのするする感。究極的には、食べた感覚がしない!くらいの。霞を食べる仙人のような感覚で食事をしたい。

食べ物は、まずもって異物です。料理とは、この異物の身体へのとりこみ方をデザインする方法にほかなりません。第一義として、ひとの意識や身体に馴染むデザインをこころがけます。それがわたしの料理の仕方です。他人のことはわからないので、じぶんなりに馴染む仕方。この写真の加工は、異物の表現です(いま思いついたこじつけ)。

わたしはそもそも食に対する意欲がそれほどありません。「食が細いと不健康」などとよく思われますが、逆に食べると動きが鈍ります。消化にかかるエネルギーの負担が大きい。そういうタイプの人間もいます。たぶん。だからこそ食べ物を「異物」と捉えます。というか、食べ物は大なり小なり、だれにとっても異物なのだとは思います。

しかし多くのひとがそれに気がつかないのは、咀嚼して味わい飲み込むときに感じる報酬系の強化刺激によって「異物感」がごまかされているからだと思う。これは、わたしが勝手に思っているだけの似非脳科学みたいなお話です。直感だけで編み出した、もっともらしい仮説です。根拠なしの妄想。「それっぽい理屈」でしかありません。すきあらば、それっぽい理屈をでっち上げます。

「食に対する意欲が低い人間」は少数派でしょうが、世の中は、なべて「意欲のある人間」の意見で満たされすぎています(いきなり世の中を語り出す)。働き方改革においても「働きたくない人間」の意見をこそ尊重すべきであるように思います(いきなり働き方改革を語り出す)。しかし現実はそうなっていません。

とかく、なんでもかんでも「意欲のある人間」で成立しすぎているのです。わたしには、なんのやる気もありません。カレーなんかつくる気はないのです。でもつくるんだよ。なぜか?と問われても、納得できる理屈はありません。「そう決めたから」です。これは意欲とも関係がない、仕方のないことです。わたしの行動の底の底にいつだって伏流している観念は「あきらめ」です。カレーをつくる、それしかないと。この日は、カレー以外のすべてをあきらめたの。だから。

あきらめてから、しか、人生は始まらない。あきらめてそこで試合が終了したって、わたしは終了しない。試合から脱落すれば、試合が終了すれば、わたしまできれいに終了すると思ってた。でも終了したのは、試合だけだった。わたしはあきらめても、あきらめても、終わってくれない。この時間が人生なのです。どうしてですか。いままで幾度あきらめただろう?試合が終わってからどれほどの時間が経ったろう?ねえ、安西先生。もうずいぶんになります。きょうは幾度目の最期ですか。

カレーをつくったら、もうカレーを食べるしか選択肢はない。
ほかのすべてをあきらめるしかないんだ。

それしかできない。
たったひとつの、わたしにできること。
生きること。あきらめること。

はい。これはもうすべてを炒め終えたあとの、焼け野原です。戦争は終わった。まず、にんにくとたまねぎに塩を加えて炒め、パプリカ、粉々のにんじん、瓶詰めのトマトピューレも順に加え、水分を飛ばして、スパイスと塩少々、漬けこんだお肉とヨーグルトを投入、また水分をざっと飛ばす。という順番で炒めは終了。War is over. 戦後の白黒写真です。GHQが撮影した航空写真です。

この写真は加工しておりません。あ、炒めの途中ですこしバターをいれました。長時間、弱火でコトコト煮込むと、油脂が分離してこのようになります。混ぜれば、だいたいもうカレーの色です。火を止め、さいごにルーをすこし入れて、しっかり混ぜてから、また5分ほど煮込めば完成です。冒頭のカレーの写真になります。

味は、まあまあ。ちゃんとわたしの身体には馴染むので、味は重要ではありません。重要なのは、異物感を低減させることです。突き詰めると、点滴のようなものがベストかもしれない。霞ならベスト・オブ・ベスト。でも、そういうわけにもいきません。ここにもまた、あきらめがあります。なんもかんも、あきらめてからしか始まらない。








にゃん