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往復書簡11 マジ瞬間


 矢口さんへ


 一冊、2万円オーバーの大著『ラリタヴィスタラの研究』(大東出版社)を手に取り興奮するあなたの姿が目に焼き付いています。

 「よくわかんないものを愛でる人」って、おもしろい。その横で「パラフィン紙はこわい」などとわたしもよくわかんないことをしゃべっていました。こわいんです、パラフィン紙にくるまれた本は。「丁寧に扱いなさいよね!」みたいな威圧感がすごくて。

 しげしげと眺め、棚に戻したあの本。やなことを書くようですが、ふたたびおなじ書店へ行っても、もうないかもしれません。あるいは書店自体が根こそぎ消えていたり……。その可能性もじゅうぶんありうる。あれがさいごの、またとない機会だったかもしれない(追記:amazonで買えますね。上中下の三巻すべて。お金さえあれば!)。

僕が「好き」と感じて口走るとき、それは「好きになった瞬間」の反芻なんだな、と思います。

 矢口さんはそんなご自身を批判的に見ていますが、わたしはそれでかまわないと思う。それしかない、とさえ思います。生きている時間の全体そのものが「瞬間」だとしたらどうでしょう。不可逆で、再現性のない「瞬間」の集積だとしたら。というか、宇宙的なスケールから見渡せば人間の数十年なんてマジ瞬間です。マジ瞬間。マジ塵芥のごとし。

 「好き」は無責任なものです。ついでに「ときめき」も節操がないから、部屋の片付けなんかに利用してはいけない。むしろ散らかしてしまう。本なんて増えるばかりだ。こんまりメソッドは、一部の人には逆効果だと前々から思っています。すくなくともわたしには通用しない。すこしも効かぬわ。

 わたしにとっての「好き(ときめき)」は「どうでもいい」にちかいのだと思う。責任が問われるような類のものではありません。もっと乱雑な気持ち。「漫☆画太郎が好き」というのも、めっちゃどうでもいいからです。最高にどうでもいいじゃないですか、あんな漫画(ほめことばです)。フルスイングで世界をどうでもよくしてくれる。

 だいたい、すべてはどうでもよいのです。「仕方ない」と言い換えてもいい。こっちのほうが「不可逆」のニュアンスも加味されて伝わりやすいか。仕方ない。漫☆画太郎を読んでいると「こりゃ仕方ないな……」と遥かな気持ちになる。画太郎先生はわたしに、「仕方なさ」として運命を受け入れる馬力をくれます。みんな「うぎゃー」つって、バラバラになって、はいおしまい。

 まず手始めに、なにもかもどうでもよく「うぎゃー」となる。そうするとなんかいろいろ散らばります。そこから、仕方なくないものをすこしずつ拾ってゆく。「好き」とは、最初の最初で生じるとても拡散的な感覚。こどもがおもちゃを次々と広げるみたいな。あるいは、産声のような。「うぎゃー」。画太郎先生のあれは、もしや産声……?

 その先の「仕方なくないものをすこしずつ拾ってゆく」作業が片付けです。「うぎゃー」の後始末。整理するため、とりあえずひとつひとつ拾う。中身を確認し、棚を組む。かたちにする。ときめきとはほど遠い冷静な仕事。淡々と自分の領野をひらくこと。

 「そんなに好きなもんねーな」 と思っちゃうのは、ひたすら整理に明け暮れているときです。「うぎゃー」の瞬間を忘れて、ぼちぼち片付けばかりしている。時を戻そう。そんなまいにち。人生がときめかない片付けの時間。めんどくさいけど必要な、平場の時間です。ひたすらにぜんまいを巻き続けるような。仕方なくない、あきらめのつかないことは、地味で平坦でめんどくさい。


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生きるの大好き冬のはじめが春に似て

 

 池田澄子の句。八重洲ブックセンターで、「これがいちばん好き」と言って紹介しましたね。すこし補足を書きたい。大きな時間の、ごくちいさな細部にぽつんと落ちて弾けたような句のかたちをしています。

 「冬のはじめ」というと、「死」も「嫌い」も連想されうる。しかしそれが「春に似て」とくる。この鮮やかな反転に「生きるの大好き」が支えられている。そんな句かと思う。ここにあるのは、反転によって支持される生の身振りです。


過去の各句集に、偲ぶ想いをも詠んではきたが、俳句を詠むその時の思いは、この地球に何故か生まれたマンモスの、狼の、金魚の菫の人間の、偶然に生まれ合わせたもの同士の偶然の出会いと別れの、その数知れぬことの一つとして書こうとした。少なくともペンを持っているときの私の大小の悦びや嘆きは、此の世に在る万物の思いの一つであった。そしてある日、思い付いてしまった。句集を纏めることで自分を区切り、僅かの未来を、死別に怯えずに一度生きてみたいと。

池田澄子『句集 此処』(朔出版)後記  p.213


 いかに死を想えど、さいごは「生きてみたい」へと落ちる。あるいは「出会い/別れ」「大/小」「悦び/嘆き」。ここにも均整をつける反転の身振りをわたしは読み取ってしまう。そうした「数知れぬこと」「此の世に在る万物の思い」のひとつひとつを纏めたすべてが「生きてみたい」の支持体、すなわち句集として残される。そんな俳人が池田澄子だと思う。

 散歩しながら、矢口さんにぽろっと「むずかしい人だなあ」と言われて、なんだか愉快でした。うれしかったかな。自分でも自分を「むずかしい人だ」と感じるときがあります。ははは。あれこれ矛盾したことを言ったり、書いたり。大した能もないのに、考えすぎるきらいがある。

 でも行き着く結論はむかしからずっと単純なんだと思う。「生きてみたい」って、そんなようなところ。もうちょっとだけ、生きてみたい。あるいは、ありがてえなとか、おもしれえなとか。アホみたいにシンプルなところ。

 古武術研究家の甲野善紀さんが「矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱う」とむずかしいことをおっしゃっていて、こういう物言いにやたら惹きつけられる性向がわたしにはあります。とてもよくわからなくて、いいですね。だけどこれもたぶん、シンプルな在りようのお話なのだと思う。たぶんね。


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 あと触れておきたいのは、「好きを考える上で、嫌いを知るって大事ですよね」という切り口。そうですね。わたしは悪感情にこそ責任をもちたいと思っています。「好き」と関連付けて、ちゃんと自分の手を汚すのです。

 たとえば、こんなこと。西崎さんは「いいもの」を世に出すとてもいいお仕事をめちゃくちゃされています。こうした悪感情の利用法が理想的だと思う。かっこいい。自分の「是」を明確にして強化するための嫌悪です。いわば、方法的嫌悪。私怨上等。

 


 こんなところで。
 夜中になっちゃった。

 ではまた。






 2020年6月29日 永田(うげ) 拝







にゃん