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11/10 日記 「好き」についての備忘的覚書



ピカチュウ。加工しまくり。

この画像をinstagramに投稿したら、なにやらポケモンが大好きそうな外国の方から英語で「ピカチュウ探すの手伝ってよ」みたいなコメントが入って、なんて返せばいいのやら困り果てています。ジョークなのか、なんなのか。スカウトされたのかな。もしかしたらピカチュウの写真を1枚アップするごとに5億円もらえる夢の職業に就けるかもしれません。このチャンスを逃すわけにはいかない。とりあえず「いいよ!いっしょに探そう、マサラタウンで待ってる!」みたいな返信をデタラメな英語でしておこう。うまくいけば、わたしはポケモンの世界の住人になります。

もひとつ、このピカチュウきっかけでsui sui duckというバンドのベーシスト、清水新士さんがフォローしてくださったみたい。名前を知っているバンドだったのでなんかうれしい。この方もピカチュウが大好きっぽい。

ハッシュタグ検索でたどってこられたのかな。インスタだと恥ずかしくてあんまりハッシュタグつけないのですが、ハッシュタグはだいじだなあ。大量のハッシュタグをまいかいつけているひと、すごいって思う。そんなに見てほしいのか……その貪婪なかんじ。なりふり構わず、ドンランに!みならいたい。

やっぱ、「いいね!」もらえたり、つながりが増えたりすると、単純にうれしい。単純です。めんどくさいことをこのブログにぐちゃぐちゃ書いている気がするけど、単純ばかです。ひとつもめんどくさくない。でも、べつに「いいね!」もらえなくても、つながりが増えなくても、まったくかまわないから、わざわざそれを乞うようなことはしません。

へたに目立っちゃって何百も何千もよくわかんないひとびとから「いいね!」がきたらこわいし……。そんなことはがんばってもありえないだろうけど。わたしは、ほんとうに敬愛している少数のひとに、「いいね!」なんかいらないから、一瞬でもこんなやつがいると認識だけをしてもらえれば、それだけで、それに勝る幸福はないと思う。

instagramをはじめてよかったことのひとつは、畏れ多くて近寄れないし、そのひとに軽々しく接している人間をみると嫉妬で悶え死ぬかと思うほど、こころより敬服しているひとから、わたしを認識していただけたことです。もう何年もまえから、あなたのことばをずっと頼ってきました。わたしのあたまを絶え間なく掻き回してくれる存在。ちょっと信じられない。こんな未来がくるなんて、思ってもみなかった。

そばにいてって言えないくらい
好きだった人がいて

好きだよって言えないくらい
愛してる人がいた

あきれるほどの寒さより
レンジであたためたセリフより
ただ届けたいのは ただ届けたいのは


届けたいのは。

わたしはそう思ったら軽々しくひとに「好き」とか言っちゃうほうだけど、やっぱ思っても思っても言えないひとはいます。チャットモンチー、『メッセージ』の歌詞みたいな。どうしても無理で、だけど言わないと気づいてもらえなくて、だから、気づいてほしいとも思わなくなった。そもそも、じぶんになにかをしてほしいなんて、たとえ好意でもそんな想いは迷惑で不遜だ。

「好き」を表明することは、すなわち権利の表明と同じことだろう。好きだから、そばにいたい。好きだから、手をつないでほしい。好きだから、抱きしめたい。わたしにはその権利がある。なぜなら、あなたのことが、好きだから。

わたしは、そんな、権利をふりかざすことばを届けたいのではない。けっきょく、じぶんの気持ちばかりを逸らせて、なんにも理解しようとしていないんだ。「好き」とは理解の放棄にほかならない。

しかしいっぽうで、相手を知ろうと冷静にあたまを働かせれば働かせるほど、好きも嫌いもなくなってしまい、ヒトを観察するだけのつめたい人間になってしまうところもある。理解をしようとするには、ひとりだけを見つめるばかりではいけない。他と比較して位置づけることが必要で、比較考量は気持ちを平らにする。だれしもを公平に、平等にあつかうことって、ひどくつめたいひとじゃないと、できないと思う。

ものわかりよく理解を示してくれる、だれにでも等しくやさしい人間にはどこか、冷え切ったところがある。理解しかしないようなひとは、こわい。たしか精神科医の中井久夫の本に、患者は「わかられない」ほうが安心している、という一節があった。理解は、底なし沼だ。ある“理解”を示したとしても、“わかっていない、もっと理解せよ”と際限なく要求することができる。そうして依存が始まる。もっとわかってよね!「完全なる理解」にたどりつく日は永遠にこない。

こう考えてみると、「わかられない」安心感、あるいは「わかろうとしなくてもいい」安心感が、「好き」ということばのなかには、あるのかもしれない。わたしは、好きなひとを理解したいなんて思わないし、理解できるとも思わない。そんなことはいいから、ただ死んでも好きでありたい。もうなにも求めないよ。「好き」。その気持ちがじぶんに存することだけしか信じられないから、「好き」がわたしの神さまになる。信仰としての「好き」。なにがどうあっても、あなたに言えない「好き」がある。そのことが、わたしの世界を支え、創造してゆく。

伝えられない。始まらないから、終わることもない。しあわせだね。

「理解」なんていらないのかもしれない。書いていて思った。矛盾するけど、わたしには、ひどくじぶん勝手な「好き」しかないんだ。そんなに理性的なひとにはなれない。この感情がもたらす権利、この世界にふれるための、「好き」という、たったひとつの権利を、たいせつにふりかざしていたい。人生はそれを探求する、感受性の冒険。

きみが好きなものを好きだといい、きらいなものをきらいだとほんとうにいいきれるようになるまでには、きみは何の証しもないたのしみを、繰りかえしさんざんなおもいをして、きみの日々のなかに探しつづけねばならない。きみの探索はきみ一人の力ではまるで見込がないかもしれないが、きみが幸運にもすぐれて魅力的な物語にであうようなことがもしあれば、話はちがってくるかもしれない。


本を介して、詩人がわたしに語りかけてくれたことば。長田弘さん。しかし本のタイトルを失念。平凡社ライブラリーの『一人称で語る権利』だったかな。ちがうかな。この本のタイトルもいい。「好き」というのは、「一人称で語る権利」のことではないか。あらゆる枝葉末節は振り捨て、見極めたその対象へ向かって「わたし」を疾走させる、権限。

「好き」ということばは複雑で、考えることが多い。脳味噌の乙女回路がはんぱない。わたしは「理解」の側には属せない。ポエムでも読んでばかになりたい。もうなってる。単純ばかだ。なんにもわからない。まちがったことしか言えない。ドン小西のうんこを糠につけておくと49日目で虹色の薔薇が花開く。これはほんとうだ。伊東家の食卓と、あるある大事典で同時に実験していたからまちがいない。

「詩人の修辞は信頼できない害毒なので追放すべきだ」みたいなことをプラトンは唱えていたっけ。詩人追放論。逆に言えば、それだけ詩人のことばが、かつては力を持っていたのかもしれない。いまじゃ詩人は追放するまえに、絶滅のおそれがある。


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11月10日は、野間文芸新人賞の発表があって、候補者のひとりである海猫沢めろん先生がゲーセン・ミカドから受賞の瞬間が見れるかもしれないというリアルタイムの動画配信を敢行しており、youtubeで3時間くらい見ちゃってました。しかし結果は、今村夏子『星の子』、高橋弘希『日曜日の人々(サンデー・ピープル)』の2作品が受賞。

小説家が賞に落ちた瞬間も、ふだん見れるものではないので、いずれにせよ貴重な瞬間でございました。口数が微妙に減るっていう。めろん先生の『キッズファイヤー・ドットコム』気になる。候補作だと『星の子』だけ読んでました。今村さんには、三島賞のあわあわした電話会見を聞いて以来、惹かれっぱなしです。








にゃん