私のFrozenⅡ⑦|核心に触れる勇気

劇場ではもう吹き替えしか見れず、あんな無意味なものはないと憤慨しながら3回目を断念しましたが、まだまだアナ雪2熱は冷めていません。

エルサの挑戦

エルサはいよいよ、アナをまたも遠ざけます。
とはいえ、エルサは自分で決めて自分のことに責任をもって取り組もうとする一方、アナは上記のようにはっきりと自分自身で決めて行動することの重要さを知りながら、エルサについていく形でここまで足を進めてきました。ここは恋人と似ているんですね。
エルサにとっては「これは私の問題だから、私にしか覚悟がないことだから、アナには危険だ(達成できない)」と思ったかもしれませんね。

一人になったエルサはアートハランを目指そうと、荒れ狂う闇の海へ挑みます。
冷たく決して手加減をしない海に、いくら魔法があるとはいえ身一つで挑むその勇気。エルサの覚悟の強さが見えます。
母の歌った子守唄は
最も恐ろしいものに立ち向かう勇気がある?
その川の知ることに向き合える?

と尋ねています。

その川が知ること …つまり真実は向き合うのにはとても恐ろしく、誰しも足がすくむことでしょう。それでも、向き合った先にあるものに挑めるのかと問うのがその海なのでしょう。
海そのものだけでなく、水の精霊もエルサの行手を阻みます。しかし途中エルサが手綱を握り、馬の姿をした精霊はアートハランまで導いてくれます。
”なぜ急にエルサに協力したのか”
展開が急なため、細かな表現は省かれているようですが、水の精霊はエルサの覚悟を認めて、サポートしてくれたのではないでしょうか。

常に関わる精霊たちはエルサをサポートしてくれます。
自然は魔法をエルサに与えただけあって、仲間意識があるのでしょうか。

たどりついたアートハラン。それをみてエルサは
「氷河だもの」といったふうに漏らします。
なんとなくセリフが曖昧ですが、「当たり前のこと言った?」と初めは意味がわからなかったのですが、

自身の扱える魔法が「氷の魔法」なのは、
氷河であるアートハランが源だからだ。

ということかなと二度目にして理解しました。

こっちの方がヒットさせたい!Show Your Self

さて、アートハランに到着してすぐに歌パートに入ります。
個人的にはInto the Unknownよりこちらの方がより”ミュージカルらしい”楽曲だなと感じるからか、とても気に入っていて「メインこれやろ」と思っています。

“震えてるのは寒さじゃない
懐かしいような…”
この感覚、私にも覚えがあります。
訳もわからず涙が溢れ出てくる感覚。
自身のルーツに触れる瞬間なので、エルサにとって自分自身の核心に触れるということが分かり易い。
“私は自分の姿を見せるわ。さああなたの番よ”
これは自問自答というか、映画の中では「第六の精霊」への言葉ですが、エルサ自身でいえば内なる自分へむけている言葉ですね。

そしていよいよアートハランの奥へ至った時、真実に出会います。
母であるイドゥナ王妃の姿が写りますが、私はこれを「第六の精霊=母」というものではなくエルサにとって馴染み深く縁の深い「母親」という姿を使っただけという見方をしています。
なんせこの曲の歌詞は終始自分自身との会話なのです

で、メモ書きを見ると私は歌詞にないことを書いていて
「本当のあなた(私)を、力を受け入れて生まれ変わる」
と書いているのです。
このちょうどイドゥナ妃が写るパート、All is Foundのリプライズになっているところ…イドゥナ妃のワンフレーズ
“Come, my darling, homeward bound”
愛おしい娘に対する母イドゥナからエルサへ
母なる川(アートハラン)から力を分け与えたエルサへ
「母」という概念からの言葉なのだなと考えています。
そして故郷とは場所ではなく「うちなる故郷」なのでこれも概念ではないでしょうか。

すべての真実は自分自身のなかにある

この言葉に尽きますが、ここの描写はもっといろんなところに触手が伸びてしまってとっ散らかりやすい!
細かすぎる!!
とこの項目を書いていてパニック寸前です。

今現時点の私の解釈をまとめるなら
エルサ自身の中にある真実。自分の持っているもの、自分自身を詳らかにして「受けいれること」。
結局、前回のLet it goでは「周りは気にしないで、好きなことしちゃえ」というはっちゃけでしかなく、魔法が使える自分は受け入れられても「魔法そのもの」はまだ未解決のままだった。
人は本来の自分を本質的に理解し、受け入れると生まれ変わるような感覚が得られます。
このシーンでそれを具体的にエルサは表現しているような気がします。

しかし残念なことに、この曲だけではありませんが日本語吹き替え版ではこの深読みが困難なものになっています。
歌詞があまりにも説明的で、特定的な描写しか見せてくれないのです。それは私が日本語を母語とするからこそ、ニュアンスで捉えがちな外国語で見た故に深読みが可能になるのか、それともなにか意図的に打ち消したいイメージがあったのか。

この映画には、日本語吹き替え版では決して語ることのできないメッセージがあると信じたい。それほど、この映画は私や身の回りの(強い勧めに負けた)人たちにシナリオ以上のものを訴えかけてきているのです。

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