見出し画像

小銭の誘惑

「私たちを拾ってください」

そう言わんばかりの表情で僕を見上げるのは、大小それぞれの日本硬貨たちだった。

──僕は111円と目が合った。交番の目と鼻の先で。


都内は11月に入ってめっきり冷え込んでいた。通勤電車の中は蒸し暑く、外気は冷たく肌を刺す。それは寒い季節が目を覚ます、朝の出社前の出来事だった。

僕は電車から降りて駅の外へ出る。鞄にしまっていた上着を羽織るために、駅前のビル近くで足を止める。ビルの壁に近寄ると、足元にコインが数枚落ちているのが見えた。

1円硬貨と10円硬貨と100円硬貨がそれぞれ1枚ずつ確認できた。合計111円。「果汁グミ」は買えるけど、「ピュレグミ」はギリ買えない値段だった。

目の前には交番がある。なかなか絵になる光景だなと俯瞰的な視点から見下ろす自分がいた。

すると、僕の頭の中でスケールの小さな天使と悪魔が顔を出す。まるで若手芸人がよくやる定番の漫才ネタのようだった。


手のひらサイズの悪魔が僕に語りかける。

「誰も見てやいないさ。とっと拾って自分の財布にしまっちまいな。靴紐を結ぶ振りでもしながらさ。」

悪魔の言うことにも一理ある。交番が見えるとは言うものの、地面に落ちている硬貨の存在までは確認できない距離にある。交番内には警察官が2人、出たり入ったりを繰り返していた。

形だけの翼を持つミニチュア天使がこう告げる。

「拾って自分のものにするという選択肢は無いとして、交番に届けるのも変ですよね。時間に余裕がある訳ではないのですから。ここは見なかったことにして、会社に向かいましょう。」

善意がそこまで強くない天使だった。現実的な妥協案を提示してくる。


こんな会話劇を脳内で繰り広げている27歳の会社員男性…。客観的に見ると、とても滑稽な有り様に思えてきた。どちらにせよ、早く結論を出したかった。

お金に左右されていることは確かだ。小さな頃から僕の性根がケチくさいことは自覚している。最近はスマホ決済を使いこなしてポイントを得るのが唯一の趣味なところがあった。

結局、わずかな額ではあるものの持ち帰る勇気がなく、その3枚の硬貨はその場所に放置したままにしておいた。

会社へと歩みを進める途中、なんとも言えない罪悪感のようなものが心の中を漂った。いじめられている同級生に何も言えずに助けてあげられなかったような気持ちに似ていた。

もしくは、電車内で座っている場面で目の前にお腹が大きい女性が立っていて、それが妊婦さんなのかそれともただのふくよかな人であるかの判別がつかないために、席を譲ることができないという独りよがりな状況を想起した。

会社に着くとそんな逡巡も記憶の彼方に追いやられ、いつものように時間が過ぎていった。勤務中はさっきの天使と悪魔も空気を読んだのか、僕の脳内に登場することはなかった。


来た道と同じ経路で駅まで歩く。交番の近くに来たとき、朝の出来事を思い出した。

そこを通ると3枚の硬貨は既になくなっていた。誰かが取っていったのだろうか。監視カメラの映像をチェックでもしない限り、その真相は分からない。

僕の手に渡らなかった111円は、きっと僕と同じく今日も社会をぐるぐると忙しなく移動し続けるのだろう。たまに自動販売機の中でゆっくりと寝息を立てて居眠りしながら。

その硬貨たちの行く末に想いを馳せつつ、蒸し暑い電車に乗るために上着を脱いだ。


----------

Twitterはこちら。


また読みにきてもらえたらうれしいです。