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世界を割らない方法。 【短い小説 #1】

 “上を見上げてると、鬱な気持ちになれないらしいですよ”
 のっぺりと青い空を見上げて最初に思い出したのは、同僚が言っていたマメ知識だった。“上を向くと人間の構造的に、落ち込めないらしいです”、とかなんとか。そんな、単純な。とは思ったが、確かにこんな風にひたすらだだっ広くなにも無い空間が頭上にあることに気づいてしまうと、途端に自分の中のいいも悪いもごっそり全部吸い上げられて、空の奥深くの青い点の一粒にされてしまう気がする。それは気分がいい、とかではなくて、なんだか少し悔しい気持ちに似ている。

 なんだ。ちょっと落ち込んでたのか? わたしは。

 午後1時。都内のビジネス街のど真ん中にある公園は高台にあるため、そこそこ見晴らしはよかった(あくまで見晴らしの主体を空に限ればだが)。上を見上げたまま、ぐるりと後ろを向く。
 すると突然、そこにひび割れが現れた。
「なにあれ?」思わず呟く。
 空を縦に走るギザギザとしたライン。雑な稲妻のようにも見えたがそれは瞬きもせずひたすらに真っ黒で、あたりの青色がそのひび割れの中に流れ落ちていくように見えた。「……なにあれ?」
「どっかのアーティストの、インスタレーションらしいですよ〜」
 背後から、声がかかる。振り向くと、同僚のリコちゃんがスタバのトールサイズを片手に立っていた。
「インスタレーション?」
「ほら、空間アートってやつ。ちょうど今、この辺から見えるよってTwitterに流れてきてました。なんか、ドローンで作ってるらしいですよ。あのひび割れ」
 そう言われてまじまじともう一度ひび割れを眺める。そう言われても、一度そう思い込んでしまったせいか、あり得ないと思いつつも本物のひび割れにしか見えない。が、しばらく眺めていると、ひび割れはなんの前兆もなく突然煙のように広がり、今度は無数の黒い羽虫の群れになったかと思うと、編隊を組んでどこかの街を襲いにいくかのようにビルの間に消えてしまった。
「ほんとだ、消えた……」
「なんでひび割れなんでしょうね? どうせだったらもっとキレイなものとかカワイイものにすればいいのに」
「そうだね。でも今のはちょっとびっくりしたかも」
 っていうか、ぞっとなった。
「びっくりより、あたしはカワイイ方がいいなぁ。ゲージュツって難し〜」
 リコちゃんが空を見上げてスタバの、多分キャラメルマキアートを啜る音を聴きながら、わたしも再びのっぺりとなった空を並んで見上げていた。


 同じ日、リコちゃんが帰りに付き合ってほしいところがある、というので一緒に日比谷線に乗った。リコちゃんとわたしは歳は少し離れているが、職場では数少ない女性同士ということもあってごく時々、一緒に夕食を食べたりすることもある。が、「付き合ってほしいところ」への寄り道というのは初めてだった。
「先輩、こっちですって!」
 リコちゃんがわたしを引っ張ってきたのは、六本木ヒルズだった。その中の広場みたいなところにつくと、かなりの人数の人々が溜まっている。
「なにかのイベント?」
「ふふっ。もうじきみたいですよ」
 リコちゃんがそう言って上を見上げたのにつられて、わたしも上を見る。巨大なポットのような森ビルが覆いかぶさるように聳え立っている。星のない空はここではただの背景色だった。
 その視界が、ぐらりと揺れた。足元から振動が突き上げる。立っていられず、思わずしゃがみこむ。なに? 地震?
「きゃーっ!!!」
 そこら中から叫び声と驚きの声が上がる。リコちゃんは? と隣を見ると、同じようにしゃがみこんだリコちゃんが、にこにこと笑っている。笑ってる? ちょっと引いたわたしの肩を掴んでリコちゃんが言う。
「先輩、上! 上見て、上!」
 言われるがままに再び上を見ると、森ビルに大きな亀裂が入るのが見えた。足元の振動と同じリズムでその亀裂はびりびりと長く大きくなり、キラキラと輝く、おそらくガラスの破片と共に、崩れわたしたちの頭上に降りかかってこようとしているところだった——


「もう、怒らないでくださいよ〜」
 実際、わたしはむくれていた。同じ六本木のカフェで、目の前にリコちゃんが頼んでくれたチーズケーキとカフェラテがあるのに、手をつけずにむくれていた。
「そこまでびっくりするとは思わなかったんですってば」
「あれでびっくりしなかったら神経、無能だよ」
 地震は作り物だった。わたしは気づいていなかったが、広場は一面、一段高いステージのようになっており、その下に振動装置が仕込まれているのだと言う。崩れるビルはプロジェクションマッピングで、落ちてきたガラス片は特製の紙吹雪だった。最新のエンタメイベントらしい。「ディザスター系」と言うのだそうだ。
「いやでもなんか、先輩こういうの好きなのかな、って思ったから」
「わたし、そんな気配出したことあったっけ?」
「今日思ったんですよね、ほら、ひび割れのやつの時」
「ああ……」
「すごく熱心に見てるように見えて。それで、このイベントのこと思い出したから」
「それなら一言言ってくれたらよかったのに」
「びっくりするのもひっくるめて好きなのかも、と思ったんですよ」
 必死に弁解するリコちゃんは、ただの善意の塊だった。そんなことはもちろんどこかでわかっていたのだけれど、今日のわたしは少し意地が悪い。ふっとため息をついて、チーズケーキに手をつける。
「うん、わかったわかった。そう見えてたのなら仕方ない」
「怒ってません?」
「そもそも、あんまり慌ててかっこ悪すぎてふてくされてるだけだから」
「へへっ。だと思ってました」
 にかっ、と笑いながらリコちゃんも自分のストロベリーパイにフォークを入れる。
「それにしても、よく出来てたね。ビル自体、傾いたみたいに見えたもん。ただのプロジェクションマッピングじゃないのかな」
「なんか床の傾斜とか、いろいろ計算されてるみたいですよ。あたしもわかってても騙されそうでした、ほんと」
 騙されそうだった。でも、騙されなかった。
 でもそれって、本当なのだろうか。ふと、わたしは思う。
 騙されなかった、と思っているのは自分の思い込みで、本当はすっかり騙されているんじゃないか? ひび割れは実は見上げれば本当にそこにあって、森ビルはやっぱりばっちり倒壊したんじゃないか? わたしは実は瓦礫の下敷きになってて、今これは走馬灯か何かを見てるんじゃないか?
 いや、そんなわけないのだけれど。

「リコちゃん、もしかして気分転換に誘ってくれた? さっきのイベント」
「えっ? いやその……そこまでそう思ってたわけじゃないんですけど」
 リコちゃんは急に口がたどたどしくなって、フォークで苺をぷすぷすと無意味に突き刺す。
「ありがとう。でも、大丈夫だから」
「本当ですか? でも、あんまりじゃないですか、今日の顛末って……」
「まあ、仕方ないよ」
「でも、あたし個人的には納得いってません。あれは先輩のプロジェクトじゃないですか」
「そういうこともあるよ、仕事だもん」
「だけど、今までは無かったじゃないですか、こんなこと。信じられない。ここで取り上げるとか、ひどい」
 普段ふよふよしたリコちゃんの、これまで見たことのないような硬い表情に、わたしはたじろぐ。このままほっておいたら、わたしの代わりに泣き出したりしかねない、という空気を感じて慌てて別の話題を探す。ふと目を向けた窓の外、通りの向こう側に長い行列が出来ている。
「ねえ、見て。すごい行列。なんだろう?」
 リコちゃんが硬い顔のまま、窓の外を見る。その行列の発端となっている店の名前を確かめると、少しだけ肩から力が向けたようになった。
「なんだ。“デルビニアングロッソ”の店じゃないですか」
「え?」
「デルビニアングロッソですよ。いま大人気ですもんね。先輩も好きって言ってましたっけ?」
 一瞬、頭が真っ白になった。
 なに? でるびにあんぐろっそ、って。
「え? わたしが何を好きって?」
「あれ? この前お昼食べた時、その話しましたよね? ほら、リフェムルするかどうかっていう」
「り……?」リコちゃんの言っていることがわからない。
「でもあたし、ちょっとゲルビグレってると思うんですよね。あ、先輩のデルビニアングロッソ好きを否定してるわけじゃないですよ?」
 何。げるびぐれってるって何。りふぇむるって何。でるびにあんぐろっそって何。そう口から出かけた言葉を、すんでのところで飲み込む。なんだか、聞いてはいけない気がした。
 聞いて、なんのことだかわからなかったら、まずい。
 なぜかそう思った。頭の中に、空のひび割れと崩れるビルのイメージが鮮明に浮かび上がる。口の中にのこるチーズケーキの味。いや、これはチーズケーキの味なんだろうか? 甘み。なんらかの甘み。
「でるびにあんね。うん、そうだった。その話したした」
「先輩? なんか……急に顔色悪いみたい」
「大丈夫。なんでもない」
「本当ですか?」
 わたしは俯いて食べかけのチーズケーキを見たまま、リコちゃんがこちらを覗き込む目を見返すことができない。今見たら、変なことを考えてしまいそうだった。リコちゃんが、わたしの知らない何か違うものに見えてしまうかもしれない、そんなわけのわからないことを思った。それで思わず、口を開く。早口になる。
「あのさ、リコちゃん。あのプロジェクトのことだけど……」
「はい?」
「リコちゃんが担当になっても、わたし全然気にしないから」
「……え? なんですか、それ」
 リコちゃんの声がほんの少しだけ小さくなった気がした。気のせいだけれど。
「あたし、そんな話知りませんよ。もし本当にそんな流れになったとしても受けませんよ、そんな話」
 リコちゃんならそう言うと思った。リコちゃんはふよふよしているけど、人の機微にはなかなか聡い、善意の塊みたいな子なんだ。わたしの中では、絶対そう。
 目をあげた。リコちゃんが何か一生懸命喋っている。仕事のことかもしれないし、でるびにあんぐろっそのことかもしれない。でるびにあんぐろっその話だったとしたらわたしにはわからないけれど、でも彼女のことなら、わたしはちゃんとわかっている、はずだ。

 だから明日は、晴れていてほしいと思う。そこを見上げて、ひび割れが無いことを確かめたいと思う。
 だけど、そこにひび割れがあったとしたら……本物のひび割れがあったとしたら?

「リコちゃん、1個だけお願いがあるんだけど」
「えっ、なんですか? なんでも言ってください」
「もし、明日わたしがまた公園で空見てたら、“それドローンですよ”って言ってくれない?」
「……なんですかそれ?」
「いいから」



おわり



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「上を見上げてると、鬱な気持ちになれない」というのは、最近現実世界で同僚が言ってた話です。わたしも同僚も全然鬱ではないので、なんでそんな話になったのかさっぱりわからない……というか、すっかり忘れているのですが。

でも昔、仕事にころされそうになっていた時とか、あえて鼻歌歌うと「なんか……どうにでもなれ!みたいな気持ちになれる!」とか思ってせっせと鼻歌歌っていたことを思い出したので、上見上げ効果も案外本当かなと思ってます。




おかしかっていいですか。ありがとうございます。