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大川小学校跡地見学の記録と語り部ガイドの方のお話


1週間ほど前、宮城県石巻市にある大川小学校跡地へ行ってきた。

大川小学校は3.11で大きな被害にあった場所だ。津波で全校生徒の108名のうち74名(死亡70名、行方不明4名)と学校にいた教師11名のうち10名が犠牲となった。

学校の管理下でなぜこんなにも多くの犠牲者を出してしまったのか。大川小学校を襲った悲劇は、当時現場にいた教師だけに目を向けるのではなく、教育が行われる場のあり方についても考えなければならない問題だと今回知ることができた。そして、この悲劇を風化させてはならないという強い思いを持って活動している人たちがいることを伝えたい。私が大川小学校跡地へ足を運んだ目的である、語り部ガイドの活動を行っている 大川伝承の会 の代表・佐藤敏郎さんに現地で聞いてきた話を書いていこうと思う。少し長くなるので、はじめの 大川小学校跡地に辿り着くまでの話 は飛ばしてもらって結構。なのでどうかそのあとから最後までを一人でも多くの方に読んで頂きたい。


大川小学校跡地に辿り着くまでの話

初めに少し、私が大川小学校跡地へ行くことになった経緯を軽く説明しようと思う。

私は埼玉県に住む写真が好きな高校3年生。将来やりたいことはいくつかあるが、その中のひとつが教師になること。1年生の時に倫理を教わっていたある先生の影響で、最終的には社会科の先生をしたいと思うようになった。教育への関心が日々募るばかりだ。

大川小学校のことはニュースで見て以前から知ってはいた。震災で大津波が襲い、たくさんの小さな命が犠牲になったこと。一部の生徒の遺族が国家賠償提訴を起こし、少し前に勝訴したこと。なにより、学校の管理下での過去最大の犠牲者数であることに関心を覚えていた。どうしてそのような悲劇が起きてしまったのだろうかずっと考えていた。

いつか現地を自分の目で見て大川伝承の会に参加し、そこで話を聞きたいと思っていた矢先のこと。夏休みに出会った報道系に興味を持つひとつ上の先輩から、この前大川小学校に行ってきたと連絡が来た。タイムリーな話だった。話を聞いて行きたい気持ちが強くなったのと、興味があるならいつかじゃなくて今行くべきと背中を押されたことがきっかけで、Facebookで佐藤さんにDMを送った。半ば勢いでそのまま仙台までの夜行バスを予約した。人に聞いたり自分なりに調べた結果、どうやら公共交通機関で大川小学校跡地まで辿り着くのは容易ではないらしく、訪れる人のたいていは車を使うことがわかった。免許は所持していない上にひとりで行く予定なため、辿り着けるのかと不安はあった。まあきっとどうにかなるから、とりあえず行ってみることにした。

そして2週間後。
深夜に埼玉を発ち朝の5時過ぎに仙台に到着した。夜行バスははじめてであまりよく眠れなかったけれど、未知の世界である宮城県に訪れたワクワク感で眠気はどこかに行っていた。 大川小学校跡地への道のりはこうだ。

仙台駅 5時過ぎ着
石巻あゆみの駅 7時頃着
河北線バス 石巻あゆみの駅 7時52分発
道の駅上品の郷 8時35分着
どうにかして大川小学校へ
大川小学校跡地で佐藤敏郎さんと約束 10時〜

突っ込みたくなったであろう “どうにかして” は、先程述べた通り公共交通機関を使って大川小学校跡地に辿り着くのは難易度が高いためである。
まず、石巻あゆみの駅から出ている1時間に1本の河北線バスに乗り、道の駅 上品の郷(じょうぼんのさと)まで行くのは、時間を上手く調節すれば容易である。問題はそこからおよそ14キロある大川小学校跡地への道のり。大川小学校跡地を通る唯一の市民バスは、調べたら水曜日しか運行しておらず(訪れたのは火曜。しかも本数がかなり少なく時間が合わない...)、歩けなくもないが10時までに到着するのは無理そうだった。
なんとか道の駅 上品の郷まで辿り着いた。なんだかんだあっという間だった。自販機であたたかい飲み物を買ってひと段落しながら、片道約5000円を課金してタクシーに乗るか否かを考えていた。一応お財布にはお金を多めに入れてきた。しかし往復を考えると中々痛いものがあった。何せ埼玉から仙台までをたった2000円ほどで来たから。うーん、どうしようか。そうだ。途中まで歩いて時間的にも限界が来たらタクシーを呼ぼう。すぐに来てくれるのかはわからないけど...。なんとかなる精神で弾丸でひとり宮城に行くことを決め、ここまできた。大川小学校跡地への道のりもなんとかなると思って来た。

そして実際、なんとかなったのだ。
それは石巻のひとのあたたかさのおかげであった。

平日の朝9時頃の道の駅のベンチによそ者感の溢れる子供みたいなのがひとりぽつんと座っている。それがおそらく珍しかったのだろう。地元のおじいちゃんが話しかけてきてくれた。予想以上に方言が強かったのが衝撃的であった。一生懸命に聞いても半分ほどしか話についていく事が出来なかったが(泣)、なんと大川小学校跡地まで車で乗せていってくれるという。優しさに心がじわわぁとなりながら、甘えさせてもらうことに決めた。
車の中ではいろいろな話をしてくれた。この辺りの地域の子供や学校のこと。道の駅がまたすぐ近くにできるということ。国に対しての不満。この地に縁がある伊達政宗の話。どれも大変興味深くて面白かった。

大川小学校跡地までは、川に沿ってひたすらこのような道が続く。建物が何もないように見えるここは、震災前にはまちがあった。しかし震災後、また津波が来ると危険だからと住むのが禁止されてしまったらしい。

なんだか空がとても広く感じた。


大川伝承の会・佐藤敏朗さんによる語り部ガイド


15分くらいだろうか。あっという間に大川小学校跡地へ到着した。約束まではまだ時間があったため、車に乗せてくれたおじいちゃんと少し見て回った。このとき驚いたのが、なんと長野から運転してきたという喪服を着た一家と出会ったことだ。ここを訪れるためだけに宮城に来たらしい。
あとから佐藤さんに聞いた話だが、土日には数百人もの方が全国からここ大川小学校跡地へ訪れるらしい。なかには海外から来る方もいるという。もうすぐ3.11から9年が経とうとしているのに、と驚きを隠せなかった。

しばらくしておじいちゃんにぺこぺこお礼を言ってお別れをして、佐藤さんと合流し、さっそく校庭や校舎、裏山を案内してもらった。

大川小学校の校舎。壁がほとんど無く、教室の黒板が外から見えるのが衝撃的だ。

敷地に入る前にここで手を合わせた。一体どれほどの人が同じようにここで手を合わせてきたのだろう。


話に入る前に、

「教室で、体育館で、校庭で、走り回る子供たちの姿や歓声をイメージしてください。耳を澄まして、目を凝らしてください。」

と佐藤さんは言っていた。それがとても印象的だった。目の前にあるのは津波の悲惨さを物語る、震災前とは変わり果てた姿の大川小学校。ここには生活があって、命があって、子供たちが学び遊んでいた。いつまでも続くと思っていた日々が、津波によって突然さらわれてしまった場所。

当時、佐藤さんの娘さんのひとりも大川小学校へ通っていたという。

「あの日の夕方、中学校の制服を受け取りに行く予定だったんだよね。でも翌日、学校の前の道路に、娘を含めた見つかった子供達の遺体が次々と並べられていたんだよ。」

「ここにはいくつもの小さな命があった。救いたかった、救って欲しかった、救えたはずの尊い命があったんだ。」

娘さんを失った事実を受け入れるのは難しく、教師はどうして裏山に避難させてくれなかったのかを考えるとやっぱり理解することができないと話す佐藤さんの表情を、私はきっとこの先も忘れることはできない。悲しみ、後悔、怒り、やるせない思いを抱えたまま9年もの間、大川小学校と向き合ってきた佐藤さんの言葉はとても重かった。


1階の教室の様子。津波が襲う以前の姿を想像するのが困難に感じるほどだった。ここには机や椅子、そして生徒たちの笑顔があった。

崩壊した渡り廊下。コンクリートでできた建物が、簡単にこのような姿になってしまう程の威力を持った津波。そんなものが突然自分の目の前に現れたら。そう考えるだけで恐ろしい。


校舎のなかにも入らせてもらった。目の前に広がる景色に「わ…………」と驚愕するだけで、他に何も言葉が出てこなかった。


天井に残る津波と、一緒に流されてきた瓦礫の跡。

2階のもりあがった床。

崩壊した廊下の壁。

津波が襲った15時37分で止まった時計。

本や縄跳び。ペンケース。名前のシール。黒板に貼られた英語のカード。子供たちの美術の時間に作った作品。それらは全て泥だらけだった。

これらは約9年もの間、ボランティアの方の手によって保存されてきた。窓ガラスもない状況で雨や風にさらされても維持することができているのは、そういった方たちのおかげだそう。知らなかった。

校庭の所々に、新たに木や花が植えられていた。


けれども劣化は徐々に進んでいく。

「今はほとんど地元やボランティアの方が請け負っているけれど、行政にももう少し手を貸してほしい。」と佐藤さんは呟いた。一度に何百人もの方が訪れる時もあるのに一つしかないトイレ。観光がてらに少し気軽に訪れることもできないアクセスの難しさ。そういった点も改善できたら、と話していた。

ここは風化させてはいけない場所であると、肌で改めて、強く強く感じた。

そして佐藤さんのようにさまざまな気持ちを抱きながら大川小学校と向き合い、風化させないよう活動している方たちが大勢いるということ。

当事者ではないが、これからの未来を担っていく私たちには何ができるだろうか。


学校の裏山にも案内してもらった。
授業でも生徒は足を踏み入れていたらしく、実際、登るのはそんなに困難ではなかった。

裏山からの景色はこんな感じだ。

あの日、学校の向こうに見える川の方からに加えて、写真の左側の方からも津波が襲ってきたという。さまざまな方向から来る地上8メートルにも及ぶ瓦礫を含んだ大量の水が、ちょうどこの場所でぶつかり合い、台風のように渦をまいていたそうだ。
山に避難し助かった数名は、見慣れたまちが壊され、人が流されていく姿をここで目のあたりにし、恐怖のなかで眠れぬ夜を過ごしたのだろう。同じ場所に立ち自分に置き換えて想像しようとしても、上手くできなかった。ただ、高さが怖いわけではないのにずっと足が震えていたような気がする。


https://smart-supply.org/img/store/chiisanainochi/chiisana_inochi_2.pdf   より

生徒たちが避難を始めたのは、なんと津波がこの場所を襲う約1分前。
地震が発生してからの約50分間を恐怖に怯えながら校庭でずっと待機していたのだ。そしてついに避難を始め、なぜか裏山とは反対の県道に向かっている途中に正面から津波にのみこまれた。周辺の家に囲まれていたため歩いていた道路からは津波が来るのは見えなかった。先頭を歩いていた当時5年生の男の子は、途中で津波が来るのを見て全速力で裏山に向かって走り出し、運良く助かったという。奇跡的に生き残ったうちの1人だ。

なぜ当時現場にいた11名の教師は、すぐ近くの裏山に避難するという選択をしなかったのか。避難するには十分である50分の間、いったい何をやっていたのか。どうして救えた命は救われなかったのか。

その原因のひとつに、学校側の事前の備えに問題があると佐藤さんは言う。

大川小学校は、見直しをするようにと教育委員会から言われていた災害時のマニュアルの見直しをしていなかった。津波がまさかここまで来るとは誰も想像していなかったのだ。そのマニュアルについても、先生たちの間で共有されていなかった。
さらに震災後の(当時は現場に不在だった)校長の遺族への対応の悪さ、教師側(学校側)の責任逃れをするため、唯一現場にいて助かった教師に嘘の証言をさせ、先程述べた5年生の男の子の証言を揉み消したといわれる周りの大人の態度。結局あの日、あの時、校庭で何が起こっていたのか。真実はわからない。だけど、教育が行われる現場のあり方に問題があったのは事実だ。そうでなければ、こんな悲劇は絶対に起きていなかったはず。そう語る佐藤さんは、いくつもの複雑な感情を抱えているようだった。

そして何より強く印象に残ったのが、このショベルカー。
行方不明の4名のうちの2名の生徒の遺族が、9年間、毎日子どもを探しているという。私には愛する子どもを失う気持ちがまだわからないけれど、想像しただけでとても胸が締め付けられた。

目を凝らせば見ることができるショベルカーに乗る方の顔を、私はどうしても見ることはできなかった。



大川小学校から学ぶこれから


百聞は一見にしかずという言葉に習うとおり、実際に大川小学校跡地に行く前と行った後では、考え方に変化があった。テレビやネットでは得られない知識や経験を得ることが出来たからだ。自分の目で見て、当事者の声を直接聞いたことでショックも大きく、強く印象に残ったことがいくつもある。同時に責任感のようなものを感じた。そしてそれらの経験をこの先も忘れてはならないと思った。考えなければならないことはたくさんある。私を含め、きっとひとりでも多くの人が考えてなにかしらの行動に移すべきだ。この悲劇を他人事にしてはいけない。


佐藤さんの話しで心に刺さったことを最後に2つ、ここに残したい。

「防災は恐怖を煽てるものであってはいけない、なによりハッピーエンドに繋がることを忘れては行けない。防災は安心するためのものだ。だからこうして過去に蓋をするのではなく向き合うことで未来を作るんだ。」

「大川小学校のこの被害の背景にある教育のありかたや、教育に関わる一部の人が持つ、 子供<大人(自分の利益) の価値観をもう一度考え直さなければならない。大川小学校での出来事を決して無駄にせず、ここからはじめていくんだ。」

話をする佐藤さんの姿。佐藤さんは、大人と向き合ってばかりでは無く、もっと全力で本気で心の底から生徒たちと向き合う教師が増えたらいい。と言っていた。私もそんな教師になりたいと思った。



大川小学校跡地を訪問して学んだことは、私たちひとりひとりが広い視野と知ろうとする姿勢を持ち、今自分ができること・すべきことを考え行動し続けるべきだということ。そして、伝えていくこと。



佐藤さん、道の駅から送ってくださったおじいちゃん、そして帰りになんと石巻駅まで送ってくださった、たまたま居合わせた宮城テレビの取材の方々。あたたかな人たちとの出会いと親切に心から感謝したいと思う。 

そして、亡くなられた生徒や皆様のご冥福をお祈り申し上げます。


写真楽しい。いつも拝見してくださってありがとうございます。