見出し画像

科学が発達し、今や最高の高みに立ったと自惚れる私たちが、いかに没落した存在か

佐伯啓思,2020『近代の虚妄 現代文明論序説』(東京:東洋経済新報社)

近代の虚妄

コロナ禍と現代文明批判

新型コロナウィルスがこれほどまでに急速に世界に広がった背景にグローバリズムがあるということは間違いありません。しかし、コロナ禍の時代に生きるためにどのような処方箋を求めるかは、二つの立場が対立します。一つは、アンチグローバリズム。国境を閉鎖して今後もグローバルな活動に対しては抑制的であろうとします。もう一つは、グローバリズムを徹底する立場。ワクチン開発やその普及は国際的な協力によってこそ現実的になる以上グローバリズムの徹底こそが処方箋になるとします。著者は、反グローバリズムの立場ではありますが、徒らに西洋を批判し、グローバリズムの虚妄を暴き立てるという立場ではなく、西洋思想の良質な伝統を追いながら、静かに私たちの生き方を振り返っていこうとするところに特徴があります。一歩踏み込んでいうならば、グローバリズムもまた西洋思想の良質な土壌から生まれたものですが、いつしか土壌を喪失して新たな養分を得ることができなくなったが故に危機に瀕してしまっているのです。グローバリズムを上から批判するのではなく、その土壌喪失の瞬間に立ち会った思想家の言葉を紐解きながら追体験し、今とは別のあり方を模索していくところに本著の魅力があります。このコラムでは、まさに西洋文明の没落を扱った第3章を取り上げながら、どのように西洋文明がその絶頂において没落の運命を認識したかをまとめます。

西洋の没落 文化ペシミズムの思想家たち

本書の第3章では、西洋の没落を自己認識した名著が生まれた時期を戦間期に見ています。代表はシュペングラーですが、他にもホイジンガ、オルテガ、ツヴァイクなど大関クラスの思想家が目白押しです。(横綱クラスとしては、ニーチェ、ハイデガーでしょうが、他の章で扱われます)

では、シュペングラーはどのように西洋文明が没落すると語ったのか。ここで重要なのは文化と文明の峻別です。文化が洗練されて文明になるというのが単純な図式ですが、逆にいうと文化は洗練されているわけではないものの、独特な可能性を秘めた、生き生きとした、人間の営みとも言えます。

「文化は、母なる大地の胎内から原始的な力で花咲き、その土地に密接に結びついている。そこには、ある場所に住んで歴史を支えている人たちの「魂」がある。文化は、その場所に住む人々にその文化固有の形式を身につけさせるとともに、特有の観念、感情表現、生活形態、それに特有の死の観念を与える。そこには、成熟しやがて老いゆく民族、言語、真理、神々、地方といったものがある」(p 151)

しかし、やがて文化が成熟し、洗練されると、文明となり、その土地から引き離されます。西洋が産んだ合理主義は、発展して普遍的な科学や技術となるや、西洋を越えてグローバル化しました。土壌を喪失した文明は、養分を取る事ができず、やがて衰退する運命なのです。

こうした文明の崩壊は、「人間とは何か」という問いに答える際に現れるヨーロッパ的精神あるいは人文的精神(フマニスムズ)の破壊でもありました。ツヴァイクによればヨーロッパの偉大さは人間であることへの問い、人間の営みとは何かという問へ向けて私たちを駆り立てるところにあったのですが、そうした人文主義的伝統は、科学の発展とともに忘却されていきます。今、どれだけ多くの人が古典を読むでしょうか? あるいは古典の精神に学ぼうとする書物を手に取るでしょうか?

では、こうした文化の崩壊に対してどのような処方箋があるのでしょうか。ホイジンガは人文主義の崩壊を認識しつつも、倫理的な態度を保持することで危機に対抗しようとしていました。

「文化とは、決して概念的なものにとどまらず、体験であり、活動なのである。われわれは精神的な仕事や精神的な受容の静けさの中で文化を感じ取り、享受したいと思うだけでなく、またその実現に協力したいと願うのである。文化は、われわれにとって心構えであり、魂の緊張である。だが、文化を所有しているという意識が完全にわれわれに与えられるのは、日常の仕事を超えた高みにおいてのみである。われわれは、この高みを得るために、貴族的な距離でもって世界から身を引き離す必要はない。ただ世界に対して人格的な態度をとることができれば良いのである」(p193)

独断的だが、共感できる

佐伯先生の本は、文章は平易なのですが、「原因」を掴もうとするとモヤモヤします。古典の引用が多いのですが、古典というのはその性格上、独断的で、根拠がありません。文化が文明になるといっても、ある現象がどこまで文化でどこからが文明なのかを、明確に定義したり、検証したりすることはできません。

だから、西洋文明はなぜ没落する運命なのですか? と問うても本著から回答は得られないと思った方がいいでしょう。土壌を喪失するからですというのは原因ではなく、このように没落しますといった叙述にすぎず、「そのようにも表現できるよね、ところで、土壌って何ですか」という新しいモヤモヤに突き当たります。

つまり、ある現象についての原因を突き止め、再現性のある命題に落とし込むことを目的にして本著を読むべきではありません。古典の精神に触れ、追体験し、共感したら、多少自分の生き方に反映できれば、小人の読書としてはまずはよしとするべきでしょう。自分としては、現代「文明」の窮屈さを指摘し、別のあり方を模索しようとする本著は、非常に魅力的な著作です。なぜ今の科学者・専門家は教養がないように見えるのだろう、なぜイノベーションの飽くなき追求や統計を活用したお金儲けがこんなに窮屈なんだろう、と思う人にはぜひ本著を手に取っていただきたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?