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負け犬の遠吠え 満州事変5 関東軍の決断

1927年、北伐を進める蒋介石の国民革命軍は上海、南京を占領しましたが、南京に入場した国民革命軍は在留外国人(日本人も含む)に対して暴行・掠奪を働きました。

この「南京事件」の時の外務大臣は「幣原喜重郎」です。

彼は「協調外交」を重んじ、英米の砲艦が南京に報復攻撃を加えている中で「不干渉」を支持し、日本海軍は日本人居留民が襲われているのをただ見ている事しかできませんでした。

「協調外交」とは言うものの、周囲からは国際的な衝突を恐れるあまりに下手に出る「弱腰外交」として捉えられ、それが逆に英米の不信を買ったばかりか、支那人達は日本を甘く見て「侮日感情」が芽生え、連鎖反応的に「漢口事件」などの悲劇を引き起こす結果となりました。

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こうした幣原の外交姿勢は「軟弱外交」だと批判されて倒閣の一因となってしまいます。

代わりに1927年4月に発足した田中内閣では、田中義一が首相と外相を兼任し、方針転換がなされる事になりました。

そして6月には支那に対する制作方針を決める「東方会議」が行われます。

支那に住んでいる日本人や、支那における日本の権益を守るためには出兵も辞さない、
という「対支政策綱領」が発表され、諸外国に通知しました。

外国に住む自国民を国が守るのは当然の事であり、通知された国から抗議されることはありませんでした。

このようにして、日本政府は幣原の「協調外交」から、いわゆる「積極外交」へと転換して行く事になるのですが、田中首相は張作霖爆殺事件の事後処理でつまづいてしまい、1929年には総理大臣を辞職してしまいます。

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田中内閣の後を継いだのは浜口雄幸(はまぐち おさち)を首相とする浜口内閣ですが、浜口首相は大学時代の同級生である幣原喜重郎を再び外相に据えました。

「山東出兵」「張作霖爆殺事件」などによって悪化した支那との関係を、協調外交によって取り戻そうとしたのです。

そんな中、「田中上奏文」という英語で書かれた謎のパンフレットが世界中にばらまかれました。

「上奏文」とは、天皇に渡す文書の事なのですが、これは漢文と英語で書かれた物だけで日本語で書かれたものが存在しない、明らかにインチキな文書でした。

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その内容には「日本が世界征服するためには満州・支那を占領しなければならない」という事が書かれていました。

この文書は支那では大いにプロパガンダとして利用され、アメリカではフランクリン・ルーズベルトがすっかりこれを信じ込んでしまい、日本を潰す決意をしたと言われています。

いつ、誰が作ったのかわからないこの文書を、コミンテルンはロシア語、英語、フランス語、ドイツ語に翻訳して欧米にばら撒き、日本は悪役に仕立て上げられて行きます。

明らかなデマであったため、日本政府は大した対策を取りませんでしたが、後に実際に満州事変が起こった事によって信憑性が高まってしまいました。

1944年に公開されたアメリカの映画「バトル・オブ・チャイナ」では、しっかりと田中上奏文の事が紹介されており、しっかりと日米戦争の戦意高揚に利用されていました。

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このように国際的に「悪の侵略国家」に仕立てあげられてしまった日本は、経済面でも窮地に立たされる事になります。

さて、第一次世界大戦が終わった後の1920年代、本土が戦場にならなかったアメリカは世界経済の中心となっており、「永遠の繁栄」と呼ばれる好景気を迎えていました。

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交通手段の発達に伴い、住宅産業や自動車工業が活発化し、世界中の人がアメリカの株を買い、アメリカ経済に依存するようになります。

しかし世界大戦から復興したヨーロッパ経済が徐々に持ち直してくると、アメリカで過剰に生産された商品や農作物が売れ残り始めると、工業指標が下がり始めてきます。

そんな中、1929年10月24日、ニューヨークの証券取引で株価が大暴落します。(暗黒の木曜日)

その事を週末に全米の新聞社が大々的に報じると、29日にはさらに株価は大暴落しました。(悲劇の火曜日)

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不安になった人々が続々と銀行からお金を引き出した事により銀行が倒産、銀行から融資を得ていた企業・工業も倒産し、連鎖的に悪影響は広がり、自殺者も出ました。

この経済破綻は世界中に広がり、「世界恐慌」の始まりにつながって行きました。

アメリカ史上最悪の悪法と呼ばれる「スムート・ホーリー関税法」というものがあります。

これは世界恐慌真っ只中の1930年に制定されたもので、2万品目もの輸入品に記録的な関税をかけるという滅茶苦茶な法律でした。

この法律に対する報復として諸外国がアメリカからの輸入品にも高関税をかけた為に、世界恐慌がより深刻化してしまう結果を招いてしまいました。

この法律の目的は、自国内の産業を安定化させる為の措置だと言われていますが、実はこの法律が議論されていたのは世界恐慌が始まる前の事ですので、世界恐慌対策などではなかったのです。

1920年代の華やかな経済成長の中で、農業の平均所得は下がり続けており、あらゆる産業が発展して行く中で取り残されていました。

当時、大統領選挙を戦っていたハーバート・フーバー大統領は、農家を守るために輸入農作物に高関税をかけると公約します。

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1929年3月に大統領に就任したフーバーは、公約実現の為に議会を開きますが、これに乗じて、農作物以外の自分の利権に関係する企業分野の製品にことごとく関税をかけようと目論む議員がいました。

リード・スムート上院議員(共和党)と、ウィリス・カーリー下院議員(共和党)です。

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彼らの提案が通れば世界経済が麻痺するのは必至であり、この法案が下院を通過し、上院で可決されるかどうかの議論の瀬戸際が、10月の大暴落を招いたと言われています。

戦後恐慌や関東大震災のダメージが大きかった日本に追い打ちをかけるように世界恐慌が始まり、日本の経済は危機的状況に追い込まれました。

とりわけ打撃を受けたのが農村です。

アメリカへの生糸の輸出が激減し、朝鮮や台湾からの米の流入によって米が余ってしまった事によって、日本の産業を成り立たせていた「米」と「養蚕」の二本柱が潰れてしまったのです。

東北や長野では女子の身売りが横行し、餓死者が続出し、都市部でも失業者が溢れかえり、人々の所得は激減しました。

株価暴落率50%
失業者数300万人
倒産銀行件数1300件

日本経済は、このままでは軍備維持もままならない状態にまで陥りましたが、排日移民法の為、職を求めてアメリカへ行くことも許されませんでした。

満州の権益を死守する事は、国の死活問題だったのです。

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日本を追い込むのは経済状況だけではありませんでした。

1929年、ソ連と奉天軍閥が共同管理していた中東鉄道の利権を奉天派が実力行使で奪回しようとしたため、軍事衝突が起こりました。(中東路事件)

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ソ連の指導者スターリンは戦車や航空機を揃えた最新鋭の部隊を満ソ国境に送り込み、張学良率いる10万人の奉天軍を蹴散らし、全ての利権を手にしました。

ソ連軍に捕らえられた数千人の捕虜は川へ流されたと言われています。

この戦いで明らかになった事は、ソ連の満州への領土的野心と、「支那の軍ではソ連を止める事はできない」という事です。

もし満州から日本の影響力が退けば、ソ連は容易に南下することが出来、支那利権を有するイギリスやフランスと必ず衝突する事になるでしょう。

そしてそれは、支那を主戦場とした世界大戦の勃発にも繋がりかねません。

中東路事件

さて、元はと言えば満州は、漢民族の立ち入らない不毛の荒野でした。

しかし日露戦争後、日本の手によって産業が起こされて発展し、関東軍が治安を保つと、1904年に1000万人だった人口は1931年には3000万人にも増えました。

内戦続きの中華民国と違って、強い関東軍のいる満州地方は大きな戦闘が起きなかったため、多くの人達が移住してきた結果でした。

見違えるように繁栄した満州は、各国から狙われることになり、日本を排除しようと言う動きも活発になります。

満州王と呼ばれた奉天軍閥の「張作霖」やその跡を継いだ息子の「張学良」は、日本人に土地を貸した者を死刑にし、日本製品には不当な税を掛けました。

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満州から日本人を排除しようとする動きは活発になって行き、登校中の児童にも石が投げつけられつ始末で、日本人に対する暴行、異物破損の件数は膨大な数となり、日本人がまともに暮らせるような状況ではなくなってしまいます。

さらに張学良は、日本が権益を保有する満州鉄道に対抗するため、条約を違反して満鉄を包囲するように並行線を敷設し、満鉄に大打撃を与えました。

もちろん奉天軍閥には鉄道を建設する資金があったようには思えません。この「満鉄包囲線」の裏には、アメリカの支援があったと言われています。

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そのような状況の中、外交問題に発展する事件が立て続けに起こります。「万宝山事件」と「中村大尉殺害事件」です。

満州と朝鮮の国境には、「間島」という、満州と朝鮮両方が領有を主張する土地があり、そこには多くの朝鮮人が暮らしていました。

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1910年の韓国併合以降は多くの朝鮮人が満州へ移住したため、間島の人口は60万人にも膨れ上がります。

しかし、中華思想の名残からか何なのかはわかりませんが、朝鮮人は支那人・満州人から差別される存在で、国境を巡る紛争が絶えず、1928年からの2年間で100件にものぼる紛争がおきていました。

さらに間島には朝鮮人社会主義者たちが共産党パルチザンを組織しており、日本の朝鮮統治に対してしばしば暴動を起こしていました。

この暴動によって一般の朝鮮人は日本が権益を持つ満州の「万宝山」への移住を余儀なくされます。

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万宝山に移住した朝鮮人は地主の許可なく用水路を作り始め、これに対し工事中止の要請をした現地支那人が銃を持ち出して実力行使に出ようとした為、支那と日本の両警官隊が出動してその場を納めました。(万宝山事件)

1931年7月に起きたこの「万宝山事件」で、朝鮮人の死者が出たという朝鮮日報の誤報を信じてしまった朝鮮人達は憤慨し、朝鮮半島や日本に住んでいた支那人を襲撃し、100名以上の死者を出す事になりました。

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これ以降、報復として満州に住む朝鮮人は支那人からの襲撃を受ける事になり、タダでさえ悪化していた満州の治安はさらに不安定になってしまいます。

明らかに朝鮮人による暴挙であった一連の事件なのですが、ご存知の通り、日本による併合下にあった当時の朝鮮人は紛れもなく「日本人」でした。

朝鮮人が巻き起こした火種でも、万宝山事件は日本の責任として捉えられ、日本政府は国家として責任を持って朝鮮人を保護し、問題解決の糸口を探さねばならなかったのです。

話は変わりまして、万宝山事件と同年の1931年の5月、中村震太郎大尉と他3名がソ連に対抗する為の軍用地を調査する為に農業技師と身分を偽り北満州へ向かいました。

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しかしそこは支那が立ち入り禁止を主張していた場所であったため、6月には張学良の軍に逮捕され、所持品を略奪された上で銃殺、遺体は燃やされて山中に埋められました。

関東軍の現役将校が、支那の正規軍によって殺害された事は外交上の重要な事案であるとして日本は抗議しますが、張学良軍は「日本の捏造である」と否定しました。(後に認める事になりますが)

幣原喜重郎外相は、ここでも穏便に事を進めようとしますが、国内世論の怒りは既に頂点に達しており、幣原外相の姿勢を「弱腰」と非難し始めました。

日本政府の姿勢に不満を感じていたのは満州の治安維持を担当する関東軍も同じで、参謀の「石原莞爾」は日本政府の陸軍軍事課長に以下のような内容の書簡を送っています。

・厳重抗議で事が迅速に解決できるという考えは空想に過ぎない
・そんなことが可能なら、数百もの未解決事件が積み重なっている現状もあるはずがない
・中村大尉殺害事件の根本は、日本人が不当に圧迫されている現状にある
・外交交渉が無力だからこんな事になっている
・日本人の居住や営業の妨害、鉄道の乗車禁止などの条約違反が行われている
・軍隊を動員して、支那軍に謝罪をさせ、排日勢力を一掃するしかない
・日本政府の「1年間は穏忍自重して待て」という意向には同意し難い

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石原莞爾は、満州に在留する日本人の命、日本の有する正当な権益を守るためには、軍事行動によって満州と支那を切り離すしかないと考えました。

日本国内では失業者が溢れて餓死者も続出、人身売買も横行し、海外へ働き口を求めてもアメリカへの移民は禁止されています。

満州では在留日本人がまともに生活する事もできない程に迫害された状況で、支那は条約を破って日本の権益を侵害し続けていました。

さらに北方では領土的野心をむき出しにしたソ連軍が集結していましたが、関東軍の兵力はわずか1万人しかありません。

そんな中で、日本政府は何も積極的な対策を講じてくれないのです。

日本の進むべき道はそう多くありませんでした。

座して国力を衰退させて死を待つか、大陸を制圧して安全な生活圏を確保するか。

関東軍は決断を迫られました。

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