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負け犬の遠吠え 大東亜戦争30 ソロモン諸島の戦い④ソロモン最後の砦、ブーゲンビル

ブーゲンビル島の北端にあるブカ島、南端にあるブインには、ラバウルからガダルカナル島を攻撃するための中継基地として、日本軍の飛行場が存在していました。

戦局の悪化につれ、これらの飛行場に対する米軍の攻撃は激化しており、ブイン飛行場にあった70機の零戦は30機にまで減ってしまいラバウルへ後退する事になります。

ブーゲンビル島の日本軍は、陸軍4万人、海軍陸戦隊が2万4千人と一見充実していましたが、火力に乏しく、島内の交通整備も不十分で部隊の機動力は低かったようです。

ニュージョージア島、コロンバンガラ島、ベララベラ島が陥落している今、米軍の次なる狙いがブーゲンビル島である事は明白でした。

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南太平洋からの米軍の侵攻ルート「カートホイール作戦」では、豊富な兵力と強固な要塞が築かれていた日本軍のラバウル基地は攻略せず、包囲して無力化する事が決定していました。

その目的を達成するため、米軍にとってブーゲンビル島の攻略は避けては通れなかったのです。

11月1日、米軍第三海兵師団7500名がブーゲンビル島西端のタロキナ岬から上陸を開始します。

その場を守備していた日本軍は歩兵第23連隊・堀之内中隊です。

わずか270名、火砲は山砲一門のみという劣勢でありましたが、米軍に戦死者78名、負傷104名という損害を追わせ、三日間に渡り戦い抜いた末、165名の戦死者を出して壊滅しました。

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米軍の上陸地点をモライ岬だと予想していて裏をかかれた日本軍は、直ちにタロキナ岬への「逆上陸作戦」を試みます。

米軍が上陸を開始した日と同日、ラバウルから重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦6隻からなる襲撃部隊が出撃、タロキナへと向かいました。

この動きを察知した米軍は軽巡洋艦4隻、駆逐艦8隻を配備し迎撃態勢をとります。

11月2日 0時45分、ブーゲンビル島沖海戦の火蓋が切って落とされました。

両軍ともに自軍の艦同士で衝突事故を起こし、米軍が日本軍の「羽黒」「妙高」を友軍だと誤認し、自軍の艦隊に向けて砲撃を行うなど、この海戦は混乱を極めました。

日本軍が放った魚雷や砲弾に不発弾が多く、日本軍は軽巡洋艦と駆逐艦を一隻ずつ失う損害を被り敗北、目標であった輸送船団の壊滅は成し遂げられませんでした。

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日本軍はその後もタロキナ逆上陸を目論み、ラバウルに支援部隊を集結させましたが、これを重く見た米軍はラバウル空襲を行い、ラバウルの日本軍主要艦船を撤退させる事に成功します。

タロキナに上陸した米軍への攻撃は、海からだけでなく空からも行われました。

基地航空部隊、空母所属の第一航空艦隊などの航空機を集めて大規模な攻撃を行う「ろ号作戦」が実行されます。

そして11月5日、前述した米軍によるラバウル空襲の際、米軍空母の艦載機と日本軍戦闘機の衝突「第一次ブーゲンビル島沖航空戦」が勃発しました。

その後11月8日に第二次ブーゲンビル島沖航空戦、11日に第三次、13日に第四次と、立て続けに12月3日までに6回の航空作戦が展開されました。

述べ350機近い戦力を投入した航空戦でしたが、米軍に効果的な損害を与える事はできませんでした。

日本軍の度重なる攻撃にも関わらず、12月5日にはタロキナに米軍の飛行場の完成が報告されます。

これはソロモン方面での日本軍の制空権の喪失を意味するのでした。

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さて、冒頭に書いたようにブーゲンビル島の北端、ブカ島には日本軍の飛行場がありました。

11月17日、ブカ島飛行場は米軍駆逐艦による艦砲射撃を受けます。

日本軍は米軍のブーゲンビル島北方への侵攻を警戒し、戦力を増強させるために輸送作戦を行いました。

11月21日、1回目の輸送は妨害を受ける事なく成功し、900名近い陸兵と34トンの物資をブカ島に揚陸させることに成功します。

しかし11月24日、一回目と同規模の第二次輸送作戦が行われました、この動きを察知した米軍艦隊との間に「セント・ジョージ岬沖海戦」が起こってしまいます。

両軍とも駆逐艦5隻の戦力でしたが、レーダーで捕捉され魚雷攻撃を受けた日本軍は戦果ゼロ、駆逐艦3隻撃沈、647名戦死という完敗を喫してしまいました。

日本軍は制海権をも失い、ブカ島への輸送は中止される事になり、ブーゲンビル島に残っていた日本軍はさらに苦境に立たされていきます。

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タロキナ岬を橋頭堡として手中におさめた米軍は、さらにブーゲンビル島の内陸部へ進出し、16キロ南方のナボイを襲撃、日本軍の物資の破壊と、連絡路の遮断を目論みます。

米軍は11月29日、上陸用船艇を用いてナボイに上陸しました。

これに対し日本軍は機関銃や迫撃砲で激しく応戦し、米軍上陸部隊は壊滅の危機に追い込まれましたが、駆逐艦隊の支援により撤退することができました。

米軍は何一つ目的を達成できずに敗北してしまいますが、この失敗により「上陸前の艦砲射撃」の重要性を認識することになります。

逆に日本軍は、海岸線で敵の上陸を食い止める「水際作戦」が有効であると確信し、その後の島嶼防衛の戦闘に大きく影を落とします。

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その後、タロキナに飛行場を建設することが目的であった米軍はブーゲンビル島全域の占領を行わず、航空兵力も増援もない残存日本兵たちは何もできないままでいました。

1944年3月に第二次タロキナ作戦が失敗した後は、大規模な戦闘が起こることもなく、日本兵たちは飢えとマラリアで斃れていくのでした。

ブーゲンビル島の様は「墓島(ぼとう)」として表現される事になります。