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コムデギャルソンのシャツを着る

コムデギャルソンのシャツを着ると、なぜか毎回、自分自身とは一体どんな人物だったのかを思い返すことになる。窮屈な首回り、硬い衿芯、体勢を崩すと苦しいほど圧迫される背中のダーツ、デザインの全てが身体に負荷をもたらす。いつもの自然な自分じゃ居られなくなる。
それでも、このシャツを着ると、自分のなかのプライドのようなものがくすぶって、自分自身と向き合うきっかけとなる。自分らしくいる事とは、何かを無くすことではなく、何かを大切にすることなのだと、思い知らされる。自分にとって大切なこととは何か。鏡に映った自分に問いただすのだ。コムデギャルソンのシャツにはそんな魔力がある気がする。

もちろんパッと見ただけではただのシンプルな白シャツだ。このシャツに限ると、特異なデザインはないし、母親が見たら、ユニクロのそれと判別つかないのだろう。それだけ、私はこのシャツの襟についたタグのコムデギャルソンの字に、幻想を重ねているだけなのだ。シャツが身体にもたらすアクションも、ただの現象だ。ブランド志向と言われれば、そうなのだろう。ハイブランドのロゴが大好きなマダムやOLと変わらない。でも、コムデギャルソンは、ただコムデギャルソンを纏う感動や喜びを与えてくれる訳ではないことだけは言える。ブランドタグが示す、「紛れもなくコムデギャルソンであるということ」が、心の中の自分の目を覚まさせるというか、火が灯されるというか、勇気を分けて貰えるのだ。

コムデギャルソンの服は、荒々しい反骨精神、浅はかさ、青さ、狡猾さ、人を踏みこえて突き進む強さ、世の中が認めようとしないすべてを許してくれる。噛み合わないボタン、裏返しのニット、長すぎる袖のニットなど、不要で面倒で効率的でないものが施されているものがほとんどだ。それらは普通の社会では排斥されるべき対象だ。しかし、コムデギャルソンを纏うと、世の中に認められなくても、自分がいるじゃないかと、諭されているようだ。デザイナーの川久保玲のまばゆいほど禍々しい「強さ」に当てられて、正されるのか、狂っていくのか、私たちの心を乱暴に刺激して離さない。「ファッションには、言葉ではなく身体そのものを使って、みずからの存在を問うという面がある」と、鷲田清一は述べている。この短い手足、太いふくらはぎ、左右非対称な足の爪、この、どうしようもない不出来な身体をひどく醜く感じる。それでも私は私のやり方で生きたいと願ってしまう。ファッションという手段を通して、夢を見る。コムデギャルソンは、それを叶えるためのささやかな希望なのだ。

#エッセイ

#コムデギャルソン
#COMMEdesGAR ÇONS

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