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ぬいぐるみに触れることで消えるもの

去年、年甲斐もなくシュタイフのクマのぬいぐるみを購入した。25センチくらいの中型で、特に抱きしめたり撫でたりするわけではないけれど、枕元に置いて、たまに姿勢を変えたりベットから転がり落ちているところを拾い上げたりしていた。ただそれだけだった。

しかし先日、それだけでは飽き足らず、ストラップ型のシュタイフのクマの小さめのマスコットを購入した。テディベアを開発した会社として有名なブランドであるだけあり、形はベーシックでこれ以上ないくらいの普通のテディベアだ。よく持ち歩く化粧ポーチに付け、リップを取り出す度にそのクマを撫でる。ぎゅっと握る。手足が上下に動くので動かしてみたりする。自分と同じく、右の口角が少し下がったクマの顔を見て、もう一度するっと撫でる。

その瞬間、自分の中で確実に、何かが消化されていくのを感じた。激しく消え失せるというよりかは、優しく溶けていくようだった。やわらかくもこもこしたかわいらしいぬいぐるみに触るだけで、何かの感情が収まるのを感じた。強く握っても優しく撫でてもなんともならないぬいぐるみが、私の爆発しそうな激情の火をそっと消してくれるのだ。

この歳になってもぬいぐるみに固執することになるなんて、自分の異常性を認めざるを得ないが、そういえば今まで思い当たる節が全くない訳ではなかった。

シュタイフのテディベアを購入するまで、自分の部屋にぬいぐるみはなかった。ぬいぐるみは大好きだが、ぬいぐるみを部屋に飾っている自分だけは避けたかった。ぬいぐるみに何かを投影して安心を補填しようとするような、貧弱で可哀想な子だとは思われたくなかった。誰かに見られなかったらいいとは思わなかった。隠した所で、そんなヨレヨレの弱い自分はいつかバレてしまう気がした。持っていたぬいぐるみは全て客間の押入れにしまい、新たに購入しまいと心に決めていた。

しかし私は今こうしてぬいぐるみに頼ることになっている。ぬいぐるみに触れることで何かの感情を置き換えようとしている。そういえば、高校二年生の時の一週間ほどの修学旅行では、30センチくらいのスティッチのぬいぐるみを家から持って行っていた。抱えている写真もある。何故かはわからない。毎日休み時間も部活ばかりしていたので、クラスに友達がいるようでいないような感覚だったからかもしれない。
大学時代に友達と行ったディズニーランドでは、帰りの飛行機や電車でもずっと友達のダッフィーのぬいぐるみを抱えていた。三人で行動していたが、私だけ意見が分かれてはぐれたりすることもあったからかもしれない。まるで幼児だ。自分の価値も居場所も守れない。自立心がなく一人では行動できない愚か者だったのだ。

やはり自分にはぬいぐるみに対して特別な感情があることが分かった。かわいいとかそばに置いときたいとはまた違う感情だ。ぬいぐるみに何かを置き換えてぬいぐるみに助けを求めている。結局は、「ぬいぐるみに何かを投影して安心を補填しようとするような、貧弱で可哀想な子」なのだ。なんだか笑えてくる。

これからは潔くぬいぐるみを大切にしよう。ぬいぐるみに依存している自分を認めよう。公言する。何を考えて生きていたかを思い出すきっかけにもなるかもしれない。こうして自分と向き合ってまたひとつ楽になれたらいいなと思う。

#エッセイ

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