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ヨウジヤマモトを着る

そもそも服に何を求めているのだろう。きっと人それぞれにファッションには譲れないものがあって、それが人の外見のほとんどを構成している。しかし人それぞれなんていうけれど、所詮服は衣類としての機能しか果たさないので、素肌を覆う為の布きれだと思えば街中を歩く人々は皆同じ格好をしている。ブランドものであろうがファストファッションであろうが自己表現とかフォーマルとか何であろうが、所詮服は服なのだ。自分の一部であるかもしれないけれど、自分そのものではない。その時の欲しい自分を代わる代わる手に入れるためのツールでしかない。

とくにヨウジヤマモトを着る時には「服に何を求めているのか」という問いが思考を埋める。それほど、ヨウジヤマモトの服は着る者を拒んで試すのだ。昨年購入したコクーンシルエットのテーラードジャケットは、まだ一回も袖を通していない。買って失敗したとは思っていない。しかし、どう着ていいのかが分からない。このジャケットを着るのに必要なものがいまの自分にはないのだ。

そもそもヨウジヤマモトが使用する黒色は難しい。墨黒というか、ブラックとは言えず真っ黒ではないしグレーかと言われるとそうでもない。恐らく染料と生地が生み出す独特の色を大切にしているのだろう。自分が持っている黒色のボトムスには合わない。ウエスト位置も、もっと背の高い人に合わせて作られたものなのだろうと思う。私が着るとどうもバランスがおかしい。服に笑われているような気もする。お前が着られる服ではないと、冷ややかに拒まれている気がする。私はこのジャケットを着てどうしたいのだろうか。何になりたいのか。

ヨウジヤマモトの服は、間違いなくコーディネートの主役になる。シンプルで、一見そこまで奇抜とは言わないけど、「崩れている場所」が必ずどこかにある。その独特の異様な感じが、滲み出ている。コムデギャルソンがファッションのセオリーを破壊していくのに対して、ヨウジヤマモトは融解というか、音を立てずにデザインを崩していくような気がする。生地が生む特性を上手く引き当てて、目立たないように反抗させるカッティングをする。コムデギャルソンの服とヨウジヤマモトの服では、どちらも違う意味で、すぐにわかる。

私が服に何かを求めるようになったのは、ヨウジヤマモトの白いシャツを買ったことからだ。定番の白いシャツにはそのメーカーの特性が良く出るというけれど、まさにそう思う。ヨウジヤマモトが使用する綿はほんとうにやわらかで軽く肌離れが良い。夏に1枚で着てもいいし、冬にはニットのインナーにも使いやすい。しかし、やはりその白いシャツにはそれなりの存在感があって、コーディネートが難しい。他のブランドの服と合わない。ボトムスから靴から小物にまで悩まされて、着るのを諦めることもある。しかし、手のかかる子の方がかわいいというか、どうにかして着こなしてみたいと思ってしまう。服屋に行っても、あのシャツに合うものはないかといつも考えている。きっとこのシャツは一生捨てることがないと思う。

20代の同世代の女性が月にかける洋服代は1万円ほどだと知って衝撃的だった。もちろん人それぞれに服を欲する理由は様々だ。出来るだけ目立たないような普通の服が良い人もいるだろうし、出来るだけ異性から好感を持たれる方がいいと言う人もいるだろうし、出来るだけ人と同じものは嫌だと言う人もいるだろう。もちろんファッション業界は人々の多様なニーズに応える為の対策に必死だ。べつに服なんてなくても生きていけるのだから。

しかし、こんなにも、服一着で見える世界は変わるというのになぁとも思う。これ!という服が1枚あれば、自分を支えるものの一つになる。家族や恋人のように、無くては生きていけないものになるだろう。シャツの向こう側のデザイナーの思惑に翻弄されて、捨てるのが怖くて、捨ててしまうと自分の一部がなくなってしまう気がして、いつのまにかアイデンティティの一つになっているだろう。服を大切にするということは、自分を大切にすることと同じなのだ。そう考えると、やはりユニクロの白シャツじゃダメなんだろうと思う。大衆向けのユニクロでは私の魂を支える力が足りない。すぐにぐずぐずに崩れて歩けなくなる。人を選んで拒んでそれでも足掻く人を愛してくれるヨウジヤマモトのシャツがあるから、私は私の道を生きていこうと思えるのだ。

#エッセイ
#ヨウジヤマモト

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