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支配は永遠に

運動することとは、どれくらい身体を支配できるかどうかだと思っている。

私は走るのが好きだけど、屋外をひたすらに走るのはあまり好きではない。何故なら、足をいつでも簡単に止められるからだ。もう辛い。もう止めたい。あそこまで走ろうと思ったけれど、息が辛くて今すぐにでも止まりたい。けど止まってしまったら走りに来た意味がなくなる。どうしよう、すぐにでも止まりたい…けど…と、葛藤がストレスになり、腹立たしくなる。走り終わったあとは達成感なんてどうでもよくなる。自分が決めたことを無事にやりきることができたという安心感だけだ。屋外で走っていると、気づかないうちに走る速度が上がったり下がったり、信号等で止むを得ず止まらないといけないことがあったり、そんな所も嫌いだ。最後まで止まらないと決めたのに、何かが障害になって嫌気がさしてしまう。一度止まってしまうと、もう走るのが嫌になってしまう。自分の意思の弱さが最大の原因なのだが、結局のところ、私は運動が好きではないのだろうと思う。

この通り、身体を動かすかどうかは自分が決めていることなのだ。当たり前のことだけれど、身体はすぐに休みたがる。

ランニングマシンを使うと、自分が決めた距離や時間や速度を終えるまでベルトが周り続ける。自分の意思に関係なく、とにかく足を動かさないといけない。まるで実験用マウスのようだけれど、運動するという観点から見ると、何とも効率がよく、非人間的だとも言える。身体には良いことなのかもしれないけれど、肝心の自分自身の心のタフネスは鍛えられないままだ。自分の忍耐力を問いながら地道を走る5キロと、ランニングマシンでテレビを見ながら走る5キロとでは、私は全く違う気がする。同じカロリーを消費して、同じ量の汗をかいても、なんだか違うことのように思えてくる。

運動とは、どれだけ自分の身体をコントロール出来るかだ。コントロールしているのは紛れもなく自分自身であり、進むも止まるも自分次第だ。いつでも楽をしたがる自分の欲望と、どれだけ戦えるかどうかなのだ。足首、ふくらはぎ、きしむ膝、ふともも、股関節、震える腹筋、躍動する心臓をどれだけ自分の思うように動かせるか。どれだけ身体を支配できるか。どれだけの範囲で、強度で、支配するか。この身体は自分自身だけのものだ。支配するのも痛めつけるのも優しく愛でて好きに使うのも、自分自身だ。

#エッセイ

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