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教育が言葉を奪う

大学四年生の春の教育実習で、膝から崩れ落ちそうな感覚というものを初めて味わった。しゃがんで頭を抱えて泣きたくなった。教壇の上で、生徒達の前で、なにもかもどうでもよくなってしまった。

高校一年生の進路指導の授業で、実習生の進路アドバイスを聞いた後の生徒が書いた感想文を読んだ時だ。

200名程居る学年全体が、「感動した」「勉強も遊びも頑張ろうと思った」「今からまじめに取り組まなければならないと思った」などと言うような、ほとんど同じような回答を残していたのだ。200人は別々の場所で生まれ育ち、別々の生活をしており、ましてや自立した高校生の書いた文章が、すべて似たり寄ったりで同じような回答になるものだろうか。そんな感想を書かせるような自分の話もよくなかったのだろう。つまらなかったのだろう。感想を読みながら、彼らの冷静さに背筋が凍った。

彼らがその感情を感じたことはきっと事実だろう。しかし、その感情にぴったりと当てはまる言葉を知らない、言葉にしようとしない、言葉にできない、他を探す事もしない。いや、それすらもどうでもいい。真摯に聞いたふりをして、この感想文をできるだけはやく終わらせればそれでよいと考えている。高校に上がれば学校生活すべてが大学の推薦入試の為の内申点に関わる。本当は先輩の昔話などどうでもよいが悪目立ちは避けたほうがいいし自分はまじめで向上心があることをアピールしたいのでとりあえずはやく適当に終わらせたい。そして教師もそれを求めているのでしょうと、せせら笑いながら突きつけられたような気もする。彼らは自らの感情を言葉にする事を重要視していない。

そして奇しくも学校はそれを求めているのだ。文体や形式や文字数を指定して200人すべてが同じような文を書いてもらったほうが、採点や評価をする上で効率がよいのは間違いない。学校が、彼らに求めていたのだ。そのことに気がついた時に、やっと教職への諦めがついた。

自身の学校での暮らしを思い返すと、そういえば、のびのびと文章を書く機会は無かった。夏休みの宿題の読書感想文は決められた期限内に提出することが目的であり、提出後にその振り返りをしたり内容を評価することもない。現国のテストでは、決められた文字数のなかに文章中から抜きだした用語を記す問題が出題され、設定したキーワードが含まれているかを見て採点をする。それが大学入試のセンター試験でも適用されているのだから、学生のうちに自由に文章を書ける機会はほとんど無く、また、必要がなかったと言えるだろう。そして大学に入ると授業のレポートはコピーアンドペーストで難なくしのいで、文章を書く機会もどんどん減ってゆき、そんな学生がとうとう社会に出て、よりによって教師になったとしたなら、とんでもないスパイラルが繰り返されるだろう。そしてゆくゆくは、心が震える程感動したり怒りの感情を持った時、自分の中の語彙や表現が足りてないことにも気づかず「言葉にできないくらいの想い」といって一生言葉と向きあわなくなるのだろう。

批判的で、私情にもつれた想いは学校用としては正しくないのかもしれないが、もしそれが本質的な想いで、紛れもない自分自身なのだとするなら、言葉にしなくてもこころの中に確かに存在する激情は、どこに避難させて、どうやって押し付けてもみ消してしまえばよいのだろう。言いたいけど口には出せず、言葉にならない想いはやがて錆び付き、繊細な彼らのこころを膿の様に深くじっくりと蝕んでゆくのではないだろうか。いつかその錆び付きや膿が、自分自身のオリジナルな何かを完全に見失わせ、自分のアイデンティティさえ見いだせずただ流されるままに生を繋ぐ大人になってしまわないだろうか。

私は、これが学校教育の賜物だと考えると非常に悲しく、残念だと思う。言いたい事を隠し模範解答をつづるフリをして、言いたい事を吐き出せる機会を放棄することは、すなわち自分自身の感情と向き合うことを放棄することになる。

どうして自分の気持ちに嘘をつき、そんな気持ちなどなかったようなフリをしてしまうようになってしまったのだろう。春に咲く桜の花を美しいと思う気持ちをいかにして表現するかということは、自分の個性を知る機会でもあるのだ。生きて行く世界の見方も大きく変わるだろう。どんな時でも、結局は心の持ちようなのだ。自分がどのような人間なのか、何に腹が立ち何に心が癒され何に悲しむのか、それが分かっていれば、自分を見失わずに生きていける。

何故自分の個性を持って生きることが大切だと言うのかというと、自分の代わりなどいくらでもいるという感覚こそが、最も悲しく不要な考え方だと思うからだ。世の中に他の誰でもなく自分にしかないオリジナルな何かを見つけ出せず、はたまた生きる意味をさえも見失う。波風がたたぬように周囲の意見に同調させ、教師が扱いやすいようにプログラムされた今の学校教育は、生きて行くうえで最も大切で、かけがえのない、自分自身を育成する流れを阻害しているようにしか見えない。

自分の言葉で自分を語らせる感想を書くことを求めることは、自らの存在を改めて認識させ、「生きる力」を育む事に繋がると思う。自分を理解し、自分の言葉で説明することは難しく、大人になればなるほどその能力は必至になる。言葉に不自由する事のないはずの大人でさえも、自身の想いを伝えることは難しく、言葉に詰まることがほとんどだ。痛い、苦しい、嬉しい、楽しいという掛替えのない本質の感情を瑞々しく、より澱みなく言葉に乗せて伝えられることができれば、繊細で深刻な悩みを抱える彼らの生きる世の中が、これから生きて行くであろう未来が、ほんの少しだけでも確かなものになるのではないだろうか。

今の私でもう一度リベンジしたい。何でもいいんだと、とにかくあなたの声を聞かせてほしいのだと、まっすぐに強く求めたい。

#エッセイ

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