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なぜ僕らは活動しているのか?なぜつたえるのか?

正直「地域」には、そう興味があったわけではなかったと思う。「文化」にも全く興味はなく体育会系で運動ばかりしていて、僕が文化を語るなんておこがましいと今でも思っている。そして大学中も卒業しても、どちらかというと有名建築家、有名なデザイナーなどに興味を持ち、その人たちが手がけた「作品」を「おーすげー、自分もこういうのやれるのか?」という興味が学生を卒業し考えていたことのように感じる。2009年から九州ちくご元気計画という厚生労働省の雇用創造事業に参画し、地域の農家の方やものづくりをやっている方、魚屋さんなどの商いをしている方、ものづくりに携わる方、主婦のおばちゃんたち、多くの人と関わらせてもらった。僕ら(白水と春口)は、学生を上がったばかりで、よく社会のことがわかってない中で自分なりに「こうやった方がいいと思うんですよね!」とそれぞれのやり方でズコズコと入っていき、その地域の方々と交流をしていった。国の補助事業ということもあったが、補助金目当ての人もいたり、お金のことで揉めることもあったり、経営がうまくいかない事業者もいた。専門家とやりとりがうまくいかずにボーボーと事務所内は炎上している時期もあった。だが、それは、いろんな現象に対して、当事者の方たちと正面から議論をし、未来の方向を考えたからだと今では思う。

事業の中で、東京に何度か出張し、最前線でやられている方々と話しをする時間もあった。その人たちは僕が本で読んだ人やネットで見てた人だったりもして、地方出身の僕としては「注目を浴びている人、自分で何かを起こしている人」という意味で憧れていたのかもしれない。しかし、東京で会うそういう人たちは、とても魅力的とは言えず(東京が悪いといっている訳ではなく、今は魅力的な人たちと多くあっています)僕は、都市へのあこがれみたいなのが少し薄れ、ネットや書籍で見るような概念や編集、広報が強い人たちよりも、地域で地に足をつけて、よく言語化とかブランド化とかできていないけど、生活している農家のおじさんや、ものづくりの人たちの方が魅力的に見えた。だから、僕はこの元気計画をやりながら、都市へは登らず、自分が住んでいた佐賀や、この筑後地方で何か地域の人たち、地域の文化、魅力的な活動をしている人たちの風景に何か寄与する仕事をやりたいなとぼんやりと考えていた。

2012年3月で、この事業の契約期間を終え、僕とハルは晴れてフリーランスとなった。いい言い方をしたがニートに戻った。「戻った」というのは、僕らは大学を卒業して就職をしていないからだ。何をしようか?とぼんやりと考えていた時に、地域の魅力的な物とかにたくさん携わったけど、まとまって見れる場所がないということは、とても勿体無いなと感じていた。じゃあ、それをまとめたショールーム的な場所があればいいんじゃないか?と考え、ハルとも議論してお店をつくることにした。物件等は佐賀でも検討したが、交渉がうまくいかずに福岡県八女市の僕が住んでいた町屋の一階でスタートすることにした。

僕が何に惹かれていたか?というと「1.その土地に接続した物(ネイティブな物のお店)」「2.作ってる人と風景(ランドスケープ)」「3.その土地で作られていることと、製造プロセスの面白さ(トレーサビリティ)」この三つなような気がしている。当時は言語化できていなかったけれど、これは変わらないと思っている。そして、先進国の日本においてこれらが残っていることは僕はとても豊かなことなのではないか?と感じている。だから、この風景がなるべく続くようにはした方がいいんじゃないかとは考えている。新型コロナウイルスにより、おそらく廃業する業者もたくさんあるだろう。一度途絶えたら中々復活させることは難しい。でも、自然現象による淘汰なので仕方ないとも言えるし、速度を速めたとも言える。しかし、急速に僕らは転換を図らないと死ぬ確率は高まる。なぜ僕らが伝達しないといけないのか?なぜやるのか?というのは、やはりこういう風景を残すためだろう。

風景とは何か?目に見える様子、景色のことである。とwikipediaには記されている。ということは、僕が残したいのは、そこにいる人たちの営みなのであると思う。労働ではなくて、一人一人が意思をもって向き合っている様子を残したいのかなとも考えたりしている。なぜやるのか?なぜ伝えないといけないのか?やる意味はあるのか?なんのためにやっているのか?今一度問いながら生活と仕事に向き合ってみたいとは思う。

本質的な地域文化の継承を。