書くことがないというのは、どういうことか?

大学1年生のころから、つい3年前くらいまで、人に伝えたい、共有したいことが多すぎて、mixiやfacebook、そしてうなぎのHPなどで、自分が感じたことや、見たものや、調べたものをひたすら毎日書いていた。しかし、この2、3年、人に何かを伝えたい、何かを共有したいという感情がかなり薄れている。なぜだろうか?

大学生のころ、自分の感覚を人に伝えたかった。そして、僕は大学1-2年は小説をあれこれ読んでたから、感情的にも感覚的にも新しい「文章」というスパイスが体の中に入って来ていて、それを自分の生活フィルターを通してアウトプットして人に知ってほしかったのだろう。そして、大学3-4年生は、自分の社会に対する考え方や、自分がやってる取り組みなどを披露したかったのだろう、ひたすら活動や動きを記録的な意味も含めてwebに残していた。このあたりは、日記も大量に残っていて、つい1年前くらいに、なんか恥ずかしくなり全部捨てた。これがいいことかどうかはわからないが、もう灰になっている。

そして、大学生を卒業して、ニートから元気計画までも、ひたすら見聞きしたことを、自分なりに解釈して、ブログなりに書いていた。知ってほしかったのだろう。しかし、この2-3年、特に今年に入ってからは、まったく何かを文章で記さなければならないという気持ちにならない。自分が見たものや事に、自分なりに特別な価値を見出してないのか?社会的に価値があると思うものに関しても、個人的には感動というところまでいってないのか?僕自身の感受性が目減りしているんじゃないかなとも思う。それか、それを押し殺しているのか?その状況自体にはわりと興味はあるが、とにかく発信したいとは思わない。

なぜだろう。不思議だ。

もともとは、多分自立した生活ができない。食っていけない。という不安が情報発信のベースにあったように思う。とにかく、感じた事や見た事を発信して、人の気を引けないか?ということを考えていたようにも思う。でも、なぜそれをやらなくなったのか?それは、今切羽詰まってないからなのか。満足してしまっているのか?

いや、満足は間違いなくしていないけど、切迫感はない。それが原因だろう。切迫した緊張感と状況、環境を作り出す必要がある。自分をもっと過酷なリスクがある状況に突き落とさないと、僕自身の感情や感覚は目減りしていくだろう。

今、いろんな仕事に対して、僕は感情的ではない。社会として必要なことを、地域文化商社として必要なものやことを、うまく潤滑的に進めていく。それは活動としては、とても良いことだと思っているし、僕がやれる役割だともおもっている。同時に楽しいとかも全くない。嬉しいとかも全くない。不思議なくらい。きちんと機能すればいいなという感じだ。このような自分のマインドに、自分自身わりと驚いてはいる。

でも、これは同時にあまりよくなくて、もっと感動したり、自分の感情がのっていくような事業なり、生活の一部を送らないと、僕は機械化してシステム化していく。それは、健康にとってあまりよくないのではないか?と思う。

書くことがないということは、僕にとっては感情の起伏が全くなくなっているという状況とイコールと言える。それは、多分個人にとってはあまりよくない。もう一度感情的に、これはやりたい!と思えることをやっていかなければ、僕の未来はないだろう。時間は流れていく。流れていくなかで、こういう状況はあっていいんじゃないかと思う一方で、抜け出したいなと思う。

ただ、僕だけの問題ではなくて、関わっている人や、家族、いろんな人との関係性の上で、この状況は起きている。これは僕が作り出している状況でもあり、いろんな人の関係性の上で、作り出されている状況に僕が対処しているとも言えるだろう。

ただ、書きたいことがない。伝えたいことがない。という状況は、個人的にはあまりよい状況ではないように思うから、何か打破する作戦を考えたいと思う。終わり。

本質的な地域文化の継承を。