親離れ子離れ

生きてます。

ずっとnote更新していなかったけれど、生きてます。


最近、成長の止まっていた「自分の心」が動き出していると感じてる。

動き出している過程をここに綴ればよかったのかもしれないけれど、動き出し「遅れた成長」をしはじめた心を、うまく言葉や文章にまとめることには気乗りもせず何より難しかった。

それは多分、親に対する否定的な言葉だったり、今更ながらの過去の愚痴だったり、未解消だった子どもの頃の感情だったり、ここに記すにはあまり気持ちの良いものでもなく、過去にいつまでも縋り付いているいい大人でしかないという恥ずかしさもあったから。

なによりも、言葉にしてまとめるというより、断片的に出てくる「見ないフリをしていた、気がつかないフリをしていた、押さえつけていた感情」は湧いて出たそのときその場で処理した方が自分に都合が良かったからかもしれない。


なぜ止まっていたわたしの心が再び成長しはじめたのか。

それはわたしがAC(アダルトチルドレン)を自覚したことと、その先の「散々苦しんで味わったからからもうACから脱出をしたい」と模索しはじめたのがきっかけかもしれない。

結果的に、自分の辿っている経過がACから卒業するのに適した道のりらしいことがわかった。数冊の本がその導き手になったのだが、精神科医の斎藤学さん、同じく精神科医の高橋和巳さんの著書がよかった。

親と子が一緒にそこに向き合えるのがとても良い方法なのだろうが、わたしの親は一緒に向き合うことを頑なに拒んでいるようにしか見えない。それはわたしが訴えても、わたしの兄弟が訴えてもずっと変わらなかった。

ずっとわたしは親と一緒に向き合って解決していきたかったのかもしれない。わたしが親に対して必死に訴えていたのは「わたしをひとりの人間だと認めて欲しい」ということだったのだと思う。

それは親にとっても子どものわたしにとっても、お互いの人生を生きるための出発点なのだと思う。

でもいくら訴えたところで、頑なにそれを拒む親だったのだろう。わたしがここで気がついたのは、「わたしの人生の時間をこれ以上この人たちのためには使えない、わたしはひとりでも自分の人生を出発するんだ」だった。

それはわたしが既に「ひとりの親」だから時間を無駄にできないと感じたのかもしれない。とても遅い巣立ちだ。

わたしが今まで巣立ちがしっかりできていなかったのは、「あなたなら飛べるよ」とそっと優しく背中を押してくれる親ではなくて、「飛べるもんなら飛んでみろ、お前の飛び方で飛ぼうものならすぐに喰われて死ぬだろう、それでも飛んでみたいというのならもうここには二度と戻るな」という親だったからかもしれない。

二度と戻れない家、飛び方の変なわたし、羽を休めたらすぐに食われて死ぬ恐怖。書いていて涙が出てくるのでこれ以上は深めないが、まぁわたしの親は子離れができない親だったのだ。いつまでも自分の正しさや尊厳を保つためにそばに置いておきたかったのだろう。そうでもないと自分を保てない人だったのだ。そしてわたしは親の心を必要以上に読み取っていた子どもだったのだ。


今やっとやっと分かったのは、親は他人だということ、今までとても苦しかったのは、生まれてから習得してきた価値観や考え方が親のそれ(価値観や考え方)の枠の中でしかなかったこと、そこから出られずにいたこと、出ること=悪だったこと、そして価値観や考え方は誰にも強制されずに自分で選択して良いこと。



そして面白いことに「そんな親はわたしの親なのだ」という折り返したところまで心が成長してきている。

親のことをひとりの人間として尊重できはじめているのかもしれない。





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