何かを人に勧めること

先日、高校時代の友達から電話がかかってきた。
以前オススメした映画が人生史上最高だったということだった。

軽い気持ちで映画の良さを語っていたと思うが、なぜだかものすごく幸せな気持ちになった。「あ、そこのシーン好き」「あの見せ方がいいよね」「主人公はさ、」とか延々と語ったあとで、彼は「ありがとう、〇〇のおかげだよ」と言ってくれて電話を終えた。

まず、彼の素直さに感銘を受けたのだが同時に自分の中の魚の骨のようなものがスッと抜けた気がした。

「人に何かを勧める」という行為は、えてして自分本位にならざるを得ない。それは自己紹介でありがちな、趣味の話題でよく起こる。

「音楽聴くよ」「何きくの」「RADWIMPS」「あー私も!どれが一番好き?」「前前前世かな」「(え、揶揄とかなんちってとかじゃないの?)へー、いいよね!」

みたいな感じだ。もちろん自分を含めてだが、こういう場では相手との「好き」度合いに差が出てしまったとき、同時にある種のマウンティングのようなものが起きてしまうのではないかと思う。純粋さを忘れてなければいいのだが、趣味の紹介をするような年齢の時点である程度心は薄汚れている。(と僕は思っている)

趣味の話題のあとで起きるのは「めっちゃいいよ!」といった会話になる。そのときひとは、相手のことを何も考えていないように思う。

自分本意でものを語ることの危うさを回避するためのパワーワードは「人それぞれだから」だ。僕も、よく使う。大学では哲学分野を専攻しているが、全ての哲学者の考えについては「人それぞれだから」という一言で片付けられることに薄々気づいている。ましてや「個」を大切にして「多様性」を大看板に掲げている現代にはぴったりだ。

でもこうも思う。
それぞれで片付けるって、楽だけど対話は生まれないし寂しいよね、。

おそらく、僕が彼の言葉に感銘を受けたのは「人に何かを勧める」ことの一つの答えをもらったような気がするからかもしれない。ゴールは「自分の好きになったものを好きになってもらう」ということだと考えていた節がある。しかしそこには「それぞれの」価値観、評価基準、熱量がある。そもそもなんて自己中心的なゴールだろう。

実際はそうではなく、「自分はこの作品に感銘を受けるような人間だ」ということを示す名刺のようなものではないだろうか。そうすれば、そこに提示された名刺を相手が受け取るのか、彼の名刺を差し出してくれるのかそれは相手次第になる。

それでいて価値観や面白さを共有できたら最高だ。
新たな基準に気づいてから、僕は家族に好きなエッセイを紹介し、友達にラジオを勧めた。自分の好きなものを語るのは楽しい。

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