過去の自分を「取り入れる」

ここ最近、過去の自分と向き合うというブームが来ている。
直近のnoteにもその様子は、なんとなく投稿した。


2年ぶりのプール

そして昨日、およそ2年ぶりにプールに行って泳いだ。おかげで両肩と首が筋肉痛で、もはや頭も少し痛い。前回泳いだのは大学に入ったばかりの新歓期に一度泳いだ時だった。

僕は、高校3年の夏に引退するまでの約10年水泳をやっていた。
中学まで地元の強豪のスイミングスクールでみっちり鍛えられ、地元から離れた進学校に入ってからは、勉強との両立を図りながら部活のみで泳いでいた。スイミングスクール時代の練習があまりにも地獄だったために、高校では比較的楽しくやれていた。しかしその分、成績は反比例した。だからむしろ、「水泳」と聞くと中学時代の練習の方が色濃く、より鮮明に身体に染み付いている。

そして、昨日。僕の体が重力から解放されると共に、心は完全に若さを取り戻していた。ブランクがあっても体が覚えていることへの喜びや驚き、当時の自分の癖や苦手だったこともありありと体に戻ってきていた。「全然進まないなー」「あれ、もう腰が痛い」「乳酸すぐ溜まるなー」とか、1人で笑ってしまいそうになる。

そしてやはりなぜか思い出されるのは、中学時代の自分だった。日曜日以外の毎晩、狂ったように泳いでいたと思う。決して華やかな成績ではなかったが、充実したスイマーライフを送っていた。学校から帰るのが憂鬱で、塩素の匂いがしんどくて、クロックに合わせて鳴るカウントダウンの音で吐き気がした。「タイムが出なくなったな」と思ったら、全治三ヶ月くらいの疲労骨折を腰に負っていたり・・・

自己ベストの自分

ハーバーライツ史上、早すぎたゴールデンエイジだった。
教室では頭いいキャラで、ほど良く活発で、ヤンキーからも信頼され、きちんと恋愛していた。今思うと、この時代を支えていたのは反吐が出るほどの「水泳」がいつもそばにあったからだったと思う。
齢20のうち、中学時代が間違いなく最高の自分だった。

「思い出を語り始めたら、人生はもう下り坂」
「過去ばかり振り返っても、なんのプラスにもならない」


こんな言葉で叩かれそうだ。「ダセぇぞ、懐古厨が」なんて。
過去の自分にすがり付いたって何になるのか、大事なのは今だろう、と。

そんなことは僕もわかっている。

今の自分を大事にするための過去だ。
今の自分を変えるために、過去の自分と向き合っている。
正直、ここ2、3年の「自分」は胸を張れたもんじゃない。クズとまでは言わないが、泥の中をグズグズになりながら足掻いているような状態だ。気を抜いたら、すぐ後ろには奈落が待っている気がしてならない。そんな状態になっても、何かを変えようとしていなかった。努力をしているふりをしていた。楽しいふりをしていた。
だからこそ「水泳」という比較的身近な選択肢があるにもかかわらず、意識的に避けていた。僕にとって、やり切った水泳に戻るということは「過去にすがり付く」ということと全く同義だった。

痛みが教えてくれる

しかし、どうだろう。
昨日、プールに足を入れた瞬間から僕は間違いなく近年の僕になかった「何か」を取り戻している。筋肉痛の首が、可動域の狭くなった肩が、「お前今まで何してたの?」と叫んでいる。体のどこかが痛いということがこんなにも素晴らしいことだとは思わなかった。「痛み」が過去の自分を連れてきている。そこには「すがり付く」なんてネガティブな要素はひとつもないし、「懐古」のように成長を感じられないものでもなかった。

よく考えると水泳に真剣に取り組んでいた僕は、いつも「過去の自分」と闘っていた。「自己ベスト更新」が正義とされる世界では当たり前のことだった。
水泳から離れて、「過去の自分」と向き合うなんてダサいことだと勝手に考えていたのだ。自分史上最高の自分を支えていたのはいつだって「過去の自分」だったのに。

今は「自分と闘う」というのとはきっと違うだろう。
だから「取り入れる」ことにした。自分の中にあったものを、整理して、今の自分に合うものを取り入れる。それによって、自分史上最高の自分を目指す。下り坂の人生を歩むつもりなどさらさらないのだ。

だって必要な自分は重力とは無関係な場所にいるのだ。
自己ベストは「自分たち」で勝ち取るしかないのかもしれない。

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