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あの日見た空の青さを僕はまだ知らない。

「空の青さを知る人よ」を先週末に観た。

twitterで思ったことを雑に書き連ねてはいたのだけど、人と話すにつれて「これはちゃんとまとまった言葉にして表現しないとダメだな」という気持ちがふつふつと湧いてきたので、noteで文章にすることにした。


誤解のないよう前提として喋っておくが、この作品は良い映画ではあるが今の僕にとっては普通だったというふうに思っている。ベタ褒めするわけではないのでその点はあしからず。(何より、最後に書くのが嫌だからという理由でマイナスから述べている。強いネガキャンをするつもりではないが……)

また、ここから先は(なるべく少なくはしているものの)映画の内容に言及したりするため、映画を見てから読むことを推奨する。


映画全体の不満点を先に書いておく

高校2年生になる相生あおいは姉であるあかねとともに暮らしており、音楽漬けの毎日を過ごしていた。一方、あおいを心配するあかねは13年前に両親を失くしたことが原因で、高校卒業後に恋人の金室慎之介とともに上京することを断念せざるを得なくなり、現在は地元の市役所で働いている。妹のあおいは自分を育てるために自分の好きなことを犠牲にしている姉のことをとても気にかけていた。そんな慎之介は高校卒業後にミュージシャンとなるべく上京してデビューしたのだが、全く売れずに鳴かず飛ばすの状態が続いていた。そしてそれが影響して、地元への連絡もままならなくなっていた。
(wikipediaより引用)

細かい点を抜きにしてこの映画について話すと、不満に思ったことは3つある。


①エンタメ性に乏しかった
この映画で描かれている物語は、時間だけを切り取るならば「不本意な帰郷となったミュージシャンが地元でライブに出るまでの話」である。そして、映画の流れの中で複雑なストーリー展開はほとんど存在せず、自然に物語が進んでいく。つまり、事象だけを切り取ればめちゃめちゃ理解しやすい話であり、裏を返せば展開の起伏に欠けている。予告編を観て「何が起こりどういう結末を迎えるのか」についての予測がある程度つくと思うが、実際に観るとほとんど予測通りで裏切りもない。
展開に本質があるタイプの作品ではないし、物語を理解しやすくすることで感情の機微を考えさせる誘導を作っていると思うのだけど、それでも何か予想の外から来るような、ワクワクや驚きを生む展開が欲しくなってしまった。

②記号的に感じる要素が多かった
作中の回想シーンと現在との間では実に14年が経過している。実際に『慎之介が東京でデビューに失敗し、演歌のバックバンドメンバーとして活動している』であったり、『みちんこがバツイチで息子が小学生である』であるなど、14年の歳月を経た「事象」はある。一方で、その事象と今をつなぐ説明・描写のようなものは少ない。各キャラクターがどう人格形成がなされて今があるのかをぼかしており、『このキャラクターはそういうものだ』と受け止めざるを得ない作りになっている。これも感情の動きに集中させるための施策なのではないか、とは思いつつも、なんとなくキャラクターに厚みを感じられず、記号的に見える側面はあった。
(これについては後ほど弁明が入る)

③もう少し後ろの物語まで映画で描いて欲しかった
映画の終わり方は個人的には一つ納得の行く形ではありながら、やはり音楽フェスティバルが中盤から終盤にかけて物語を動かした要素であるからこそ、その終幕までは追いかけたかった気持ちが残った。エンドロールを通して(おそらく)成功に終わったのだろうことは見えるのだけど、物語前半から置かれていた『音楽に打ち込むあおいと、拗れながらプロとして存在する慎之介』の関係性がセッションを通して終着するシーンを映像で見たかった。まあここまでやってしまうと描きたかった本当の本筋からブレてしまうので、どちらかというと「エンドロールで今後を示唆する止め絵を流さず、映画内でスパッと終わって欲しかった」の方が正しいかもしれない。


これらのことを映画を観終わった直後には思っていて、「あのシーンではこういうことしたかったんだろうな」とかを考えるような、映画内の良かった場所を見直していくという感じになった。
自分にはまらない要素がある作品に対して割とよくやることではあるのだけど、「振り返ることで作品の中の好きな要素を自覚する」という行動である。

これをしながら1~2日ほど経って、「自分にとってこの映画がどのようなものだったか」に整理がついた。結論自体は最初からほとんど変わっていないが、言語化がなされた感覚を得た。


『相生あかね』という、この物語の主人公

この映画の主人公は『相生あおい』である。映画内では彼女の視点を中心に描かれているし、「町おこしバンドのベースに抜擢される」「14年前の『しんの』と出会い、恋心を抱く」など、シーン展開の核にいる人物であることは疑いようもない。

だが一方で、物語の中心にいるのは彼女ではない。『相生あかね』である。

「あおいはあかねに対して負い目を感じている」し、「慎之介は今もあかねに対する想いを持っている」し、「しんのは純粋にあかねが好きな状態でいる」。なんならみちんこもあおいに思いを寄せている。メインキャラクターたちの感情の起点はあかねにある。それに対して、あかねの(表面的ではない)本当の感情が見えるシーンは終盤までほとんどない。

このアンバランスな状況が生まれているのは、「物語での重要感情のほとんどが『相生あおい』という少女のフィルターを通して描かれている」からだ。

一番身近でありながら、その実がよくわからない『あかね』の存在。自分のためにいろいろしてくれているけど、なぜそれだけのことをしてくれているのかはわからない。それをなんとなく負い目に感じている『あおい』。

この映画は「四人を巡る四角関係の恋愛ストーリー」であるかのようにカモフラージュされていて、予告編もそういうミスリードを作ろうとしている。しかし、途中まで観れば感づくように、この映画は「人間関係を通じて、『あおい』が『あかね』を知る物語」であり、そして土砂崩れの後にあかねが救出されたシーンで、あおいに対しての答え合わせがなされるのだ。
(もっとも、これ単体で捉えるとある種”ありがち”な内容ではあるのだが)


『空の青さを知る』ための物語

「あかねを知る」という観点では、あかねの記したノートを台所で偶然発見することで、言語化されていない姉の想いを一気に理解するシーンは、差し入れのおにぎりが今なお昆布であると『しんの』に発覚するシーンと合わせて、この映画の中心位置にあると言える。

「いや、あかねが頑張っていたことなんて薄々わかっていただろうし、あおいがノートを見つけたり自覚するの遅くないか?」という風に思うかも知れない。というより映画直後の僕の感想はそうだった。
だが、これは順序が逆で「あかねがあおいに自覚させまいとしていた、自覚させる機会を与えなかった」というのが正しいと思う。

田舎であることや「井の中の蛙」などからして、作品のバックテーマには『囚われ』『停滞』という要素があるのは間違いない。井の中から出ることを決意した慎之介と、止まることを決意したあかねの対比から物語はスタートしている。後者の象徴として、止まり続けようとしたとするのならば……あおいの性格が14年前からほとんど変化がないこと、14年の経過が全体を通じてあまり感じられないことも含めて、説明がつく。

映画の最後、あおいは空の青さの片鱗を知った。そしてエンドロールでは(見間違いでなければ)大学への進学を決めた様子の止め絵が描かれていた。井戸の中で美しさを知り、飛び出るのではなくもう少しその中にいることを決めている。

一方であかねは、14年を通して空の青さを知った。その先の選択として「昆布ではなくツナマヨにしてみる」という選択をした。青さを知って、井戸の外に出てみることを決意している。

二人の姿は14年前の慎之介とあかねの姿に重なってくる。だが二人はすでに空の青さを知っているから、その先にあるのはかつての慎之介/あかねとは違う未来であることが察せられる。この映画は「相生姉妹が空の青さを知り、前へ進む物語」でもあるのだ。


空の青さを知りたい話

ディテールを抜きに整理した上で思ったのは「究極的には姉妹愛の物語だよね」ということなのだけど、それを通した時になるほど自分がそこまでこの映画が突き刺さらなかったことにも腑に落ちた感覚があった。

僕の身の回りには「お兄さん」「お姉さん」にあたるような、年上の人はいなかった。親戚の中で自分が(ほぼ)最年長であるし、憧れを抱く対象もなかった。高校の時も部活の先輩は一人だけだったし、敬っていた面もあるけど先輩自身が気さくだったこともあって、同級生に近い形での交流だった。

僕の生活環境を通して、『あおい』における『あかね』のような存在はいなかった。僕自身は本質的に『あおい』ではなく『あかね』側の立場であった。かといって、『あかね』のような強い覚悟を抱いたわけでも、強い経験を通ったわけでもない。『しんの』のように強い野望を抱いていたわけでもなければ、慎之介のように何かに夢破れたこともない。

感情移入をしやすいように、理解しやすいように作られている中で、登場キャラクターの中で今の自分に重なる箇所がなかった。他人事の中で繰り広げられるストーリーを観ていて、残ったのは展開が容易に推測できた物語のみになってしまった。感情を語る物語で強い共感を得られなければ、それは普通の域を出なくなるのも納得がいく。

これが7年前に観ていたのであれば、17歳の『あかね』の立場から31歳の自分に思いをはせる形で感情が入ったかもしれない。
これが7年後に観ていたのであれば、31歳の『あかね』の立場からこれまでを振り返る形で重ねた部分があったかもしれない。

「自分のための映画だ」と残念ながら感じなかった程度に、自分が井の中の蛙であることを理解した。

7年後にこの映画をもう一度見たとき、空の青さを身に染みて理解できていたらいいな……


PS.
「慎之介が御堂に向かった背景」やら「つぐが如何に良いキャラか」やら「新渡戸 団吉の意図的なキャラクター性」やら、相生姉妹以外のことをほとんど書いていないが、枝葉要素になる気がしたので割愛した。もしかしたら整理するかも。

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