斉藤浩一著「日本の英文法ができるまで」(研究社)
ざっと読み通したが、やはり後半の日本の英語教育における英文法論議が面白かった。今でもたまに聞かれる英文法の学習は是か否か?という議論が実に明治時代(日清戦争後)から行われていたとは驚いた。もっとも、議論の大前提は、英語を使えるかどうか?つまり、実用ではあるだが、その中で、英文法不要論の強引さ、杜撰さが目立つ。が、その背景に英語産業の動きがもあったというのも現代と変わらず興味深い。
そうした英文法論議の中で注目したのがニーチェの翻訳などで知られるという生田長江氏の英文法擁護論である。生田氏は次の三つの点から英文法不要論に反論している。
一つ目は、「小児」は「文法に依頼することが出来ない代わりに鸚鵡的に記憶する」のに対し、「大人」は「器械的に記憶することが苦しい」ために「文法の力を借りて其方面の埋合わせをしようとする」のだとする。
二つ目は、多くの日本人学習者の母語として染み込んだ日本語なぞに比べると「遥かに複雑」で、「言語文章の構造組織が根本からして違って居る」英語を学ぶ際に、「文法なしにやろうとするのは殆ど不可能」とする。
三つ目は、言語環境を東京市内の地図になぞらえて説明する。東京で生まれ育った者は、知らず知らずその地理が頭に染み込んでいるので地図を見ずとも市内の目的地に辿り着けるが、上京経験のない者は「幾度かお巡査さんを煩わし、幾たびか剣突を食い、幾度か無駄足を踏んでしまうだろう。」であれば市内の大まかな構造を示す地図を利用しない手はない。
以上のように、英語で生活しているのではなく、外国語として学ぶ日本人学習者にとって英文法は地図のような存在であると主張する。
個人的にも非常に共感を覚えたが、その理由の一つはこの著者のタイトルにあるのかも?英語史ライヴでタイトルと真逆で良書と紹介した今井むつみ先生の著書「英語独習法」と一言一句同じなのだ。今井先生が、このタイトルから命名したってことある?