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「夜の足音」

 ささやかな宴が終わり、騒がしい学生たちの一団が、中華料理店の熱気から冷たい夜道へと放り出された。彼らは会計を終えてもなお散らばりきらず、軒先に釣られた赤と橙の電球を背にして、蚊柱のようにわんわんと声を響かせている。
 喧騒の中、紺色の服をまとった影がひとつ、するりと群れからこぼれ出た。
「桐子ちゃん、二次会行かないの?」
 遠回しにとがめるような声がした。彼女は聞かなかった振りをして、一人、路地へと入っていった。

 桐子は夜の散歩が好きだ。どこへ向かうでもなく、ただ魚のように、黒いアスファルトの海を泳ぎつづける。ほろ酔いなら、もっといい。静かで、一人きりなら、言うことなしだ。パンプスの底がコッと跳ねる音を聞きながら、誰にともなく微笑んだ。
(さて、ここは、どこだろう?)
 スマートフォンで地図を見れば済む話だったが、それも不粋な気がした。大学からそう離れてはいないはずだし、どうせなら自分の目で見つけなくては。散歩というのは、歩くあてがあるほど楽しみがくすんでしまう。
 細い路地から大通りへ出て、左右を見渡してみた。この市では全体に街灯が不足していて、夜はひどく暗くなるのだ。目を凝らしてみても、現在地を示すような地図や文字板などは見当たらなかった。水を打った静けさの中、家々の窓が篝火のように燃えている。
(ま、歩いてれば分かる……)
 当てずっぽうで歩き出した途端、上着のポケットでスマートフォンが震えた。取り出すと、布の間に閉じ込められていたLEDの青い光がこぼれて、桐子の細い顔を照らした。
<今どこ? これから会えない?>
 メールの差出人は、桐子のいちおうの交際相手だ。そっけない文面だったが、相手がそれなりに熱を込めて打ったであろうことは想像に難くない。桐子は頭の中でいくつか返信の文章を組み立ててみて、それから全部却下して、端末をポケットにしまった。
 今は、なんとなく、一人でいたかった。いつもなら、たいてい誘われれば断らない……友達でも、異性でも。寂しがりというほどではないが、人といたほうが気持ちは楽だし、孤独がそんなに好きなわけでもない。ただ、時々こうしてふっと、人間関係の網から切り離されていたいと思うのだ。
 無理に話題を合わせたり、適当な相槌を打ったり、愛想笑いしたり、ごくわずかの、本当に必要なコミュニケーションを取るために、どれだけのごまかしと、上っ面のやり取りを交わさなくてはならないことか。唇ひとつくっつけるために、まったく、どれだけ嘘をついてきただろう。自分も、相手も……

 しばらく、大通り沿いに歩き続けた。
 空を見上げると、月がどこにも見当たらなかった。今夜は新月なのだ。どうりでこの暗さ、通り魔にはうってつけの夜にちがいない。けれど、桐子はさほど恐くはなかった。アルコールで判断力が鈍っていたし、安全に生きてきた人間なら誰でも持つような、「自分だけは大丈夫」という根拠のない自信もあったかもしれない。
 なにより桐子は、夜という時間に対して、漠然と信頼感を抱いていた。夜のうちは、悪いことは起こらない。それは子供時代からつづく、ちょっとした信仰のようなものだ。両親が不仲だった小学生の頃、不登校だった中学の頃、いつも昼にはいい思い出がない。喧騒にまみれた、息詰まる時間。けれど夜になれば、言い争っていた二人も、冷たい目をした子供たちも、誰もが眠りについて、世界は静かになる。積み上がった不安も、ひとまずは灯りを消して、見ないふりをしていられる。
 それにもし、今夜ここで通り魔に襲われたとして……こんな静かな夜に死ねるなら、それも悪くないじゃないか。ふっと思いついたそんな考えに、桐子はかすかな戸惑いを感じた。なんの不満もない夜に、どうして死ぬことなんか考えるのだろう。色んなことを乗り越えて、ようやく少しずつ、自分が欲しいものに真っ直ぐ手を伸ばせるようになってきたばかりではないか。
 肩がぶるっと震えた。春先になっても、まだ夜はかすかに冷える。桐子はふと、自分の手の小ささが心細くなった。一人きりは十分満喫したし、そろそろ何か、手に触れる暖かいものが必要かもしれない。
(何て言おう……)
 桐子はもう一度、スマートフォン端末を取り出した。
 メール画面を開こうと指を走らせた瞬間、ヴッと手の平が揺れた。もう一通、交際相手からだ。
<大事な話だし直接言いたかったけど、早めに伝えときたいからメールで言う>
 その後は長い空行が入っていて、先の文章はまだ見えない。何の話か見当もつかなかったが、きっと大した話ではないだろうと桐子は高をくくっていた。いちいち、もったいぶるのが好きなのだ。
 けれど画面を下へ下へスクロールしていくうちに、桐子の指は固くこわばった。
<別れよう。ごめん>
 静かに波打っていた桐子の心が、一瞬ひたりと凍り付き、それからゆっくりと、泥のように熱く、どろどろ流れ出していった。下の方へ、下の方へと。

 メールにはそれから長々と、言い訳や謝罪、桐子への遠回しな非難などが書き連ねられていた。まるで納得の行かない話というわけではなかった。一年付き合っていて、上手く噛み合わないところがあるのは薄々感じていたし、桐子の距離感の取り方を、向こうが気に入らないのも知っていた……けれど、まだ先のことだと思っていた。
 わかった、と一言だけ返事を書いて送った。背中に追いすがるほど好きだったわけじゃない。
(本当に?)
 わからない……歩き出してもなお、桐子はまだ混乱していた。頭では冷たく考えながら、腹の底ではぐつぐつと得体の知れない不快感が煮立っていた。誰かと話をしたかった。
(今から、二次会に戻ってみようか……)
 左手に握りしめていたスマートフォンを、再び休眠状態から揺り起こす。その時、さらにもう一通のメールが届いた。元・交際相手の心変わりをうっすら期待したものの、差出人は未登録のアドレスだった。
 タイトルはなく、文面はほんの一言だった。
<ざまあ>
 まっすぐな悪意が、桐子の心臓を突いた。吹き出した血が喉に詰まって、本当に「死んでしまう」と思った。反射的に、桐子はスマートフォンを投げ捨てていた。道の先でカツンと硬質な音がして、最後の光が消えた。
 周囲には暗闇だけが残った。

 桐子は道も分からないまま、自分の足音だけを聞きながら、ずっと歩いていった。
 二次会には行けない。おそらく、会場にはメールの差出人がいるだろう。学内の狭い人間関係だから、おおよその目星はついている。後輩の、誰か……女。きっと、彼の次のお相手なのだろう。
(知りたくもない。もう、あのサークルには二度と顔を出さない)
 ひび割れたスマートフォンは、もうどれだけ指で触れても反応を示さなくなっていた。使えたとしても、使うあてはない。友人の誰も、人間の誰も信用する気になれなかった。人間はうそをつく。桐子は、今こそ本当に一人きりになったような気がした。

 これ以上、重苦しい考えに沈み込まないように、桐子はただ目の前の景色に意識を向けた。桐子の心とはうらはらに、静かできれいな夜……空には雲も月も星もなく、混じりっけなしの黒いコーヒーのように見える。口をつけて丸ごと飲み干せば、自分の心も同じように穏やかになるだろうか。
 道づれは、足音だけだった。カコン、カコン、と一定のリズムを保って、桐子の足は靴を持ち上げ、カカトからアスファルトに落としていく。道沿いの壁に反響したのか、足音は小さく二重になって聞こえるようだった。
(カコン・コン、カコン・コン)
 口の中で音まねをしながら、桐子は歩き続けた。周囲は見覚えのない風景ばかりだ。もしかすると、家とは正反対の方に歩いているのかもしれない……そんな考えが胸をよぎった。それは、不安というより願望に近いものだった。
(このまま、家に着かなければいい。どこにも帰り着かないまま、ずっと夜の中をさまよっていたい)
 足音はつづく。
(もう、誰とも一緒には歩かない)
 桐子は心に誓った。ついで、自分の手の平を見た。小さく、心細い手。握りしめると、すっかり冷えきっていた。必要な時にかぎって、暖かい手はそこにない。ここにあるのは、ただ夜ばかりだ。静かで、真っ黒で、冷たい夜。夕方に降った小雨が、景色にわずかな艶をもたせている。なんて、きれいな……
 ふと、衝動にかられて、桐子は右手を掲げ、目前の暗闇へと伸ばした。放り出された彼女の細い指は、暗闇そのものを撫でるようにむなしく空をかき、それから落ちていった。
(私は一人じゃない)
 桐子は言い聞かせるように、頭の中で唱えた。
(私は夜と一緒に歩いてる)
 空想の中で、桐子は「夜」に人格を与えて、自分の隣を歩かせてみた。それは男でも女でもなく、悪意も善意も持たない、ただそこにいるだけのものだ。彼女が今、切実に必要としていたのは、まさしくそんなものだった。
 たとえばこの、暗闇から返ってくる足音のこだまを、寄り添って歩く「夜」の足音だと考えてみる……桐子が立ち止まると、夜も足を止める。桐子がスキップすると、夜も後を追う。
 もしも彼女の姿を見る人がいたら、おかしな女だと思っただろう。けれど今ここにあるのは、ただ桐子と夜ばかりだ。現実に背を向けて、空想に慰めを求めたからといって、責める者は誰もいない。
(どこまで追いつける?)
 虚空へ向けて、子供のように笑いかけながら、桐子は心にまとわりついた泥を振り切ろうと、一直線に駆け出した。夜の空気は彼女を迎え入れるように左右へ分かれ、流れていった。

 けれど空想の慰めは、そう長持ちはしなかった。
 道の先に見覚えのあるコンビニのロゴマークが見えてくるにつれて、桐子の心はしらけ、足は鈍っていった。周囲に目を走らせると、頭上の道路標示も、折れ曲がったガードレールも、足下のコンクリートの凹凸さえ、見慣れたものばかりになっていた。もう、とっくに家の近くへ来ていたのだ。足音のこだまは、もう聞こえない。
 急速に、桐子は空想から現実へ引き戻された。
(やっぱり、一人っきりか)
 艶やかに潤って見えた街並が、コンビニの青い光で照らされた途端、乾き切ったかさかさの死体のように見えた。それは、これから自分に起きるすべてのことを象徴しているようだった。
 誰もいない、一人暮らしの部屋。夜が明ければ、虚ろな日常が戻ってくる。友人たちから上っ面の慰めを受けて、桐子もまた、普段通りの自分を取り繕ってみせるだろう。そしていつか、その軽薄なカモフラージュが自分自身に成り代わり、すっかり元気な顔になって、孤独から逃れるために、また嘘をついて……
 桐子はコンビニの光を避けて、ふらっと横道へ入った。暗く、人のいない路地を、熱に浮かされたように歩き続けた。まだ光に暴かれず、秘密を隠しつづけている道を。
 何か、答えになるものを見つけなくてはならなかった。世界のすべてが虚ろに見える時には、何か一つ、確かなものがなければいけない。そうでなくては、ここに留まることはできない。血の出るような焦燥が桐子を動かしていた。
 足は冷たく、無感覚になっていく。通り過ぎた窓ガラスに、死人のように青ざめた自分の顔が映った。遠く、トラックが道路を揺らす音。頭上には、ぽつぽつと露がたれる音が響く。
 今さらアルコールがまわってきたのか、頭が痛い。目と目の間に、重苦しく血が溜まっているように思えた。明日はきっと、もっとつらくなるだろう。この路地のどこかに、明日へ通じない道はないだろうか……
 半ば麻痺した頭の中に、ふっと一つのイメージが浮かんだ。誰かの冷たい手が、自分の首にかかって、そのままゆっくりと自分の喉を締めあげていくのだ。
(もし、このまま……)
 桐子は歩き続けながら、その手を受け入れるように目を閉じて、力なく首を横に垂れた。
(今ここで死ねたら、どうだろう)
 その思いつきは、最初はぼんやりと夢のようで、それから徐々にはっきりと硬質な形を持ち、桐子の心に触れた。その瞬間、ぞくっと背中が震えたのは、決して恐怖からだけではない。
(もし……)
 呼吸に熱いものが混じりはじめ、心臓が高鳴った。まるで見えない手が本当に自分の首にかかったように、息が苦しい。それは、心地よい苦しさだった。
 朦朧とする桐子の耳に、足音がまた二重に聞こえはじめた。細い道に入って、左右の壁に反響しているに違いない。
(夜が、そこに……)
 二つの幻想が、桐子のなかで一つの像を結ぼうとしていた。暗闇から生まれた不確かな影が、足を持ち、手を得て、桐子の背後に近づき、その時をじっと待っている。桐子は、その暖かい息づかいさえ感じられるような気がした。
 夜が、そこに、いる。

 その時、桐子の足音と、背後の足音が、一拍ずれた
 ただの反響ならば、起きるはずがないことだった。つまり誰かが、桐子と足音をぴったり合わせながら、確かに背後を歩いているのだ。そう思い至った瞬間、桐子はそれが人間だとは露ほども考えなかった。そこにいるのは、形を持った夜であり、桐子に最後の救いを与えてくれるものであるはずだった。
 桐子は目を輝かせさえしながら、背後を振り返った。

 そこにいたのは、しわだらけの背広を着て、いやらしく期待に満ちた笑みを浮かべた、赤ら顔の男だった。男は不安げに左右を見回しながら、ふくらませた股ぐらに左手を添えて、桐子の方へ伸ばした右手を、なで回すように上下に動かしていた。
 失望が、桐子の顔を灰色に染めていった。期待していたものとは全く違う形の死が、彼女の心をかさかさの死体に変えた。
 男はしばらく桐子の顔をまじまじ見つめていたが、そこに何の熱もないことを見て取ると、期待を裏切られたかのように表情を冷たくし、そのまま振り向いて逃げていった。走っていく男の背中を見ながら、桐子は声を上げて泣いた。

(おわり)

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