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夏の方舟 #03-06

注:過激な描写を含む表現がありますので、苦手な人はご注意ください。

06

 翌日、出社すると工房に小田桐はいなかった。
 自業自得とはいえ、やはりあの日のことは強烈な体験だったのだろう。
 長机の上に並んだバラバラ死体のような人形のパーツが、三日前のままになっている。
 ドールの顔を取り、ナイフでバリを削り取る。シリコンとは違う、エラストマーの柔らかい感触は人間に似ている。
 熱可塑性エラストマーはプラスチックとゴムの中間の材質だ。扱いが難しいがリサイクル可能な点と、柔軟性が魅力的だ。工房ではこのエラストマーに医療用の人工関節を入れたドールを作っている。数年前まではシリコンのほうが人間の肌に近い質感を出せていたが、今ではエラストマーもかなりのレベルになっている。
 人形の首をつくる。
 なぜ自分はこんなことをしているのだろう。
 ちょっと前に小田桐がネットで見て教えてくれたバーチャルイラクという記事を思い出した。バーチャルリアリティでイラクを再現し、安全を体感させて兵士のPTSDの治療をするのだという。
 傷を克服するには、その傷を見つめなくてはいけない。
 ナイフで人形の首を削りながら、巻村は思う──そうなのかも知れない。
 東向きの窓の近くの壁に貼られたオスカー・ココシュカの「風の花嫁」のレプリカポスターが、かすかな紙音を立てた。扇風機で煽られ、右下から?がれかかっている。
 二〇世紀初頭の近代オーストリア絵画を代表するこの画家には、人形偏愛(ピグマリオン・コンプレックス)の嗜好があったらしい──小田桐が前にそう話していた。
 セロテープでポスターを貼り直していると、そとの窓硝子を通して、隣の町工場から笑い声が聞こえてきた。

「ほんとなんだよ。まいったよ、マジでそのSMクラブひでえんだよ」

 聞き覚えがある声に、巻村は作業の手を止めて顔をあげた。

「変なフックでつり下げられてさ。めちゃめちゃ痛えんだよ」

 立ち上がって工房の窓からそとを見ると、小田桐が煙草を吸いながら何人かの職人たちと楽しそうに話をしていた。
 ええまじですか、やってみようかな──若い職人の相槌。

「やってみろよ。素人はよく間違えるんだけどさ、針を上から下に入れるとうまく吊れるんだ。あと血管を避ければ血は出ないから」

 へえ!──という声には驚きと少しばかりの敬意すら感じられる。

「その試練を乗り越えて、ステージでその女とやってやったんだよ」

 工場の職人たちの笑う声。さすが小田桐さんっすね──おまえも好きだな──どんなふうだった?

「ひいひい言ってたよ、その女」

 下卑た笑い声。巻村に気付くと、「よう、相棒」と手を振って立ち上がる。職人たちも一服が終わったという顔で立ち去る。
 工房に戻ってきた小田桐に、巻村が言った。

「ウケてましたね、さっきの話」

「だろ? テッパンに滑らないネタだよな」

 何事もなかったかのように、小田桐はデスクに座ってドールの中に入れる人工関節を組み立て始める。
 からっとした性格といえば聞こえがいいが、本当に鈍いのか、それとも笑い話にすることでプライドを保っているのか。
 小田桐には以前からこういうところがあった。小学校のころ、ひどいいじめられっ子だった話も、知り合いの医者からもらった怪しげな薬で、とんでもない鬱状態になった体験も、同じように誰かに笑いながら話す。
 どちらにせよ、あの夜の出来事をちょっとした?をまぶして他人に語っている小田桐のことが、巻村には理解できなかった。

 その日、小田桐はもうあの日のことには触れなかった。
 次の日も、普段通りに仕事を進めた。
 巻村はあれが本当に起きたことなのか、わからなくなっていた。

 週末、午後から巻村は何度も壁の時計を見た。時計が五時を指したのを見て、これまで滅多に使わなかったロッカールームに入って服を着替える。シンプルな黒のサマージャケットとシャツ。スリムなノータックパンツ。カーフスキンのベルト。磨かれたローファー。
 今日に備えて買った服だった。値段の加減がわからず、銀座にある名の知れたブランドの旗艦店に入って店員にコーディネイトを任せると恐ろしいほどの金額になった。貯金がほとんど飛んだが後悔はしていなかった。

「お先に失礼します」

 そう言って逃げるように工房を出ようとした巻村の前に小田桐が立ちはだかり、肩を?まれる。

「デートか? やけにお洒落じゃないか、巻村」

「ええ……」

「おまえ、行くんだろ」

 なんのことですか──そうとぼけようとしたが、無駄だった。

「俺も行く。待っててくれ」

 そう言って小田桐はロッカーに入ると、細身のシルエットが特徴的なスーツに着替えてきた。エディ・スリマン時代のディオール・オム。小田桐の身体に良く似合っている。整った顔をした長身のふたりが人体のパーツが散らばった工房に立つ姿は、現実感を欠いていた。

「今日は金曜だもんな」

 そう言ってニヤリと唇を歪める──小田桐は知っていた。
 そう、
 このあいだのあの日も、金曜だった。

 眩暈がするほど入り組んだ路地裏を歩き、また、あの煉瓦造りの入口から階段を下りて〈S〉の扉を開けた。
 一歩足を踏み入れると、中には日常に退屈し、刺激的な金曜を待ちわびた人々がひしめいていた。
 眼帯のバーテンダーがふたりの姿を認め、思わせぶりに肯くと、恭しく頭を垂れる。
 舞踏会のように仮面をつけた観客に混じり、スツールに並んで腰掛け、ドライマティーニを舐める。ふたりの姿は、恐ろしいほどに絵になっている。
 店に入ってから巻村はずっと、ステージ脇の安楽椅子で揺られる人形のようなSの姿を見つめ続けた。
 やがてまた照明が消える。
 闇。
 ステージの幕が開くと、スポットライトがタキシードのバーテンダーを照らし出す。

「皆様ごきげんよう。クラブ〈S〉にお集まり頂き誠にありがとうございます。さあ、始めましょう。禁忌なき探求を」

 拍手。
 一礼したあと、かすかな音量でピアソラのタンゴが流れ出す。

「皆様、考えたことはございませんか。どうして人は他人の性交やポルノグラフィーを見て興奮するのだろうと。現代の科学はこの永遠の疑問に、ひとつの解答を出しました」

 現代の科学?
 意外な展開に観客は静まりかえった。

「神経細胞のひとつ、ミラーニューロン、というものをご存じでしょうか。一九九〇年代にイタリアのパルマにある研究所で、サルの骨格筋を支配する運動ニューロンを観察していた研究チームが、偶然発見したものです」

 本格的な説明に、観客は当然ながら、小田桐も巻村も困惑していた。

「彼らは、サルが食べ物に手を伸ばしたときに興奮するニューロンを観察していたのですが、あるとき空腹に耐えかねた研究者が何気なくピーナッツに手を伸ばしました。そのとき、驚いたことに、なぜかこちらを見ていたサルのニューロンが興奮したのです──これがミラーニューロンの発見の瞬間です。おわかりでしょうか。つまり、ミラーニューロンとは共感を発生させるシステムだったのです」

 なるほどと観客が肯く。小田桐は「ネットで読んだことある」と、カクテルを飲みながら言った。

「つまり、最初に申し上げた、他人の性行為を見て、なぜ自分が興奮するのか、という問い。これはミラーニューロンの働きによると答えられます」

 なるほど……巻村はその話を知らなかったので純粋に面白いと感じた。

「ミラーニューロンが、メルロ=ポンティがいうところの間身体性を発生させているのだ──現代思想がお好きならそういう説明はいかがでしょう。ともかく、他人の行動を見ると、自分がその行動をするのと同じ反応が脳に起きる──これが重要な点です」

 一区切りつけて、「さて、ここからが本題です」と、バーテンダーが声をひそめる。

「他人の痛みを感じるとき、それは本当に痛みを感じているのでしょうか? 当然ちがいます。人は、痛そうだと共感しても、痛み自体は感じていません。『痛い』という信号が発生しても、実際に傷ついていない肉体から『痛くない』という信号が出てそれを打ち消すからです」

 舞台がだんだんと暗くなっていく。

「では、肉体から『痛くない』という信号が出なければどうか? どうやら実験によれば、手のない人に、手を傷つける場面を見せた場合、本当に痛みを感じるということが起こりうるらしいのです。これを踏まえて、我々はこう考えました」

 ──暗転。

「性器のない人間は、見るだけで無限にオーガズムに達することができるのではないか──と」

 そして、スポットライト。
 中央には白いワイシャツを着て、車椅子に座った青年がいた。線が細く鼻が高い、やせた青年だった。頭にはなにやらコードがつけられ、それは脇にあるモニターにつながっている。どうも脳波を示しているらしい。

「彼は事故で性器を失いました。今回の実験の提案は彼からのものです。ありがとうございます」

 拍手。

「ではご協力者をもう一方──さあ、このステージでS嬢とのプレイを彼に見てもらいたい方、おられますか」

 巻村は弾かれたように手を挙げていた。自分でもそんな貪欲さがどこに隠れていたのか、驚くほどだった。しかし、周りを見ると興奮した観客たちが何人も手を挙げており、巻村の手はそれに紛れた無数のうちのひとつとなっていた。
 小田桐もそのうちの一人だった。

「すいません、お客様」

 バーテンダーのアナウンスが響いた。

「一度でも以前、ステージに協力していただいた方は選ばれることがありません」

 小田桐はしぶしぶ手を下げた。常連ではないのだろうか、他の客の中にも何人か、手を下げた者がいた。
 そういうルールがあったのか。
 ならば、自分にはまだチャンスがある。高鳴る胸を抑えて、巻村はステージに現れたSを見つめた。

 その日のステージでSは女だった。
 上半身にタキシード、下半身になにも着ていない、仮面をつけた屈強な男に、艶めかしいよがり声を上げながら犯された。それを見ながら観客たちはまた乱交を始める。小田桐は見知らぬ女を犯し、巻村もまた見知らぬ女とオーラルセックスを行った。
 ステージの上の性器のない男のことなど、巻村にとってはどうでも良かった。
 巻村のミラーニューロンは興奮しない。彼の頭の中ではSを犯している男への殺意と、彼女への欲望が狂おしいほどに渦巻いているだけだった。


 それから毎週、金曜になると小田桐と巻村は〈S〉に出かけるようになった。
 二回目から料金が取られ、それは安いとは言えない金額だったが、趣味を持たない巻村ならギリギリ捻出できるレベルだった。
 だんだんとわかってきたことだが、Sとのプレイは毎回行われるわけではないらしい。別の女であったり男であったりしたこともあった。しかも当日のステージの内容によってプレイのレベルも変わるらしい。激しいステージの場合はプレイ内容も激しくなる。小田桐はある意味で、かなり貴重な体験ができた──ということだ。
 それを考えるたびに、巻村は仕事中に背後から彼の首を彫刻刀で?き切りたくなった。
 しかし──自分はああいう……ノーマルではないプレイがしたいのだろうか──それについては自分でもまだよくわからなかった。それどころかSのことを女性として見ているのか、それとも男性として見ているのかすら、巻村にはわかっていなかった。
 Sを見れば見るほどあの女とは違うところが見つかった。それと同時に、それでもやはりどこかあの女に似ているという実感が深まっていった。
 喉が渇き、呼吸が浅く速くなる。
 どちらでもいい。
 Sをなんとしても手に入れたい。
 手に入れなくてはならない。


(つづく)






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