もういない君と話したかった7つのこと #05
時間があるほど、迷ったり、悩んだりする
僕が「自由になったかなぁ」と感じ始めたのは、27歳でフリーのデザイナーになったときです。
一見独立したように聞こえますが、ただ、会社がつぶれただけです。
フリーランスになったあとは出版社などから仕事を回してもらったりして、なんとか食費やら家賃やらの経済面ではある程度安心できるレベルでした。
フリーランスって、あくまで仕事を請け負う側ですから、「ああしろこうしろ」みたいな注文って、よく言われているイメージですよね。
ただ、僕の仕事に限ってはそんなことはあまりありませんでした。
そもそも、その受注の多くは「突貫工事」です。
〆切が受注から3日とか1週間後とかはざらな世界。〆切が1ヶ月後という長期的なスケジューリングは圧倒的に少ない。
考えている暇がないので、相手もある程度デザインは任せてくれていました。
だから、小説を書いていて難しいと感じたのは、長期計画を立てなければいけない部分です。
本1冊は1日では書き終わりません。ゼロから始めたら1冊に3ヶ月、半年、というのは普通です。そのあいだの生活のことや、スケジュールも考えなくてはいけません。
僕は計画性がないので、書いているあいだに貯金が尽きて家を失い、ホームレス状態だった時期もありました(けっこう楽しかったですが)。
この「長期」というのが、自由を考えるうえで厄介なものです。
短期的な仕事とは異なり、長期的なものは、思考や感情が拘束される期間が長くなります。
短期的なものだと、すぐに取り掛からなくてはいけない。
自由かどうかを考えることもなく、です。
もう、体を動かすしかない。
だから、短期的な仕事だと、身体の自由が利かなくなるのは当然です。
けれども、そうした忙しさでごちゃごちゃしているときほど、人は無心で動いているものなのです。
肉体労働は悩む時間がない
僕は、かつて肉体労働に類する仕事を数多くこなしていた時期があります。
田舎にいたときですから、つまるところ、そういうバイトしかなかったわけです。
コンビニすらあまりないような土地柄でした。
そんな田舎だと事務仕事なんてないし、ひたすら道路舗装とか、穴掘ったり、植木植えたりとか、そういうインフラ系の仕事が多い。
確かに肉体的にはずっと動いていなければいけないし、だらだらできるわけでもない。
けれど、ある意味「楽」なんです。
というのも仕事自体があくまで考える部分の少ないものだから、体を動かしていればなんとか成果は出せる。
そうすると、終わったあとに異常な爽快感を感じられました。
自由かどうかなんて悩む暇がない、ということなんです。
自宅に帰って、お風呂に入ったら、もう十分だ、という具合です。
それで翌朝また出勤する。つまり、頭から自由という単語を消せば、悩むことなんかないんです。
そうなると、考えている時間が一番つらいということになります。
ただ、どうしても悩んでしまう時期は僕もありました。
そんな「悩む必要ない」と言われても納得いかないのが25歳前後でした。
このときにはすでにデザイン会社に勤めていたので、多くの読者の方と同じような境遇だと思うんです。
大学から新卒で会社に入ったり、非正規雇用だったりでなんとか最初はがむしゃらに頑張るけれど……という時期ですね。
誰だってそうですが、ある「勘違い」をします。
「僕は、もっと偉い人間なんだ」
「こんな仕事をやっている人間ではない」
という、焦燥にも似た勘違いです。
2~3年働いたとして、ある程度〝仕事の幅〟というものがわかってきます。
すると、「いつまで、僕はこれをやるんだろう……」という気持ちに駆られていませんか。
正社員なら「毎日のルーティンワークに流されたくない」、非正規雇用なら「いつ生活が安定するんだろう……」、そういう悩みです。
自由とは「人生の選択肢の数」でしかない
哲学者の鷲田清一さんが、
「極と極の間に、自由というのはある」
という趣旨のことを著書の中で言っています。さんざん極端な生き方をしてきた僕としても、これは確かだと思います。
自由というのはあくまで「生き方の幅」です。
あなたが想像できる自由は、想像の範囲内でしかないのです。想像を超えたものは想像できません。
そのなかで「こうしたい」と思ったことが、どれだけ出来るかが自由か不自由かの分岐点ということです。
けれども、選択肢の数がどんなに増えても、内面的なところで躓く人は多いのではないでしょうか。
ものすごく極端なたとえをしましょう。
今すぐ、僕が失踪して、ホームレスになって、一人で河原で住み始めても、何も問題はないわけです。
確かに社会的には問題視されるかもしれないけれど、「行動の選択肢」として、可能性がゼロじゃない。
ゼロじゃないということは、行動することはできる、ということです。
「もう何もかもいやだ」なんて悩んでいるなら、会社員で妻子持ちだろうが、会社を辞めて、妻も子どもも捨てて、どこかに消えてしまうことだってできます。
たとえば、ブッダもそうです。
ブッダは客観的な自由さで言ったら、当時としては破格の自由さです。
部族の王族、しかもその後継者ですから、当然お金もあるし地位も名誉も、そして人柄も買われていた。
さらには妻もいて、普通だったらどこかの国の困った後継者のように、ぶくぶく太るものです。
勝ち組の超リア充です。
それでも彼は出家したわけです。
不自由さを感じている我々からすれば、まったくありがたみのわからないリア充です。
けれども、そんなに満たされていた彼も、ある大きな不自由から逃れたい、と考えていました。
仏教には「四門出遊」という有名なエピソードがあります。
あるとき、若いブッダが外出しようと城の門から出ようとしたら、東・南・西・北それぞれの門に、老人・病人・死人・修行僧がいて、「生の苦しみ」を目の当たりにしたのです。
逃れられない不自由さ。
ブッダにとってそれが、「老」「病」「死」というものになりました。
以降、彼は出家の意志を持つようになったとされています。
よりよい生活のために役立てます。