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もういない君と話したかった7つのこと #03

無気力に救われることもある


 Kはよくこう口にしていました。
「自分は無気力であることで救われている」
 どういうことでしょうか?
 動物は努力してもどうしようもない状況に長く置かれると、「どうせ無理だ」とばかりに努力しなくなることがわかっています。
 これは「学習性無力感」と呼ばれ、1960年代にマーティン・セリグマンという心理学者が発見したものです。
「どうでもいい」。この後ろ向きな感じはまさに無気力の学習です。
 これによって他のいろいろなつらいことに目を向けなくても良いのです。
 つまり、無気力になることで結果的にいろいろなことから救われるというわけです。
 Kは自分でそれをわかっていながら、選んでいるように見えました。
 しかし今考えると、それは自由意志で選んだというよりも、選ぶほかなかった緊急避難場所だったように思えます。
 無気力は悪化するとうつ病になり、やがて死を考えるようになります。
 確かに、すべての苦しみは死ねばなくなります。
 けれど自分で死ぬのは恐ろしく困難なことです。だからこそ、困難でだれにもできないことこそやる価値がある……そんなふうに考えたのかもしれません。
 Kが最後に選択したこと、それ自体は肯定も否定もできないものです。
 こうした人の心に立ち入れない問題が起きるのは、それが道徳ではなく倫理の問題だからです。
 道徳と倫理の問題は、自由や善悪など、人間の意志と社会の規範が対立する問題を考えていると、必ずいきつくところです。
 道徳というのは社会的な決まりごとであり、それは普遍的な真理とは無関係に変化するものです。しかし倫理はもっと普遍的で、人間の性質に由来するものです。
 僕の言葉で言うと、道徳は社会的ルールで、倫理は自分ルールのことです。
 道徳的には自殺はよくない。
 けれど、それが倫理の問題である限り、誰もそれに意見することはできないのです。

カントの考える「悪」の問題


 僕は、自由には外見的なものと内面的なもの、さらに、前向きと後ろ向きがあると思います。
 では、自分で選んだ自殺はどれに分類されるのでしょうか。
 キリーロフやKは、個人の倫理に基づいて前向きに戦って死んだのかもしれません。
 しかし、死の間際の状況を知ると、両者ともにやはり最後は揺れていたんじゃないかと思えるのです。
 残された言葉などを見ても、やはり本人もそれが前向きだと全面的に肯定していません。
 鬱状態での心理を本当の気持ちだと言えるのか、それはなかなか難しい問題です。
 哲学者カントが「宗教論」(『たんなる理性の限界内における宗教』)で考えた「悪」についての話もこれと少し似ています。
 カントは、このようなことを書いています。

〝人間が悪と呼ばれるのは、その人間が悪しき(法則に反した)行為をなすからではなくて、それらの行為がその人間のうちの悪しき格率を推定させるような性質をそなえているからである。〟

 平易に言い換えるとこうです。
「人間が悪と呼ばれるのは、その人間がした行為が悪いかどうかではなく、それがどのような主観によってなされたかによって決まる」
 つまり、善悪は心の問題だというわけです。
 しかしそれではすべてを割り切ることはできません。
 なぜなら自分の心にはコントロールできない部分もあるからです。


科学的には「自由な意志」は存在しない?


 心の自由──自由意志というものは存在するか、という問題は非常に興味深く、科学の分野でも面白い研究があります。
 自由意志の研究で最も有名でよく引用されるのが、ベンジャミン・リベットの実験です。
 80年代にカリフォルニア大学サンフランシスコ校生理学科名誉教授のベンジャミン・リベットは、とある実験を行いました。
 被験者の頭皮に電極をつけ、好きなときに指を曲げさせ、それを記録します。同時に被験者は、自分がいつ指を動かそうと思ったのかも記録します。
 その結果、面白いことがわかりました。
 被験者が指を動かそうと決める「前」、およそ0・5秒前に神経系の動きが観測されたのです。
 つまり、「意志」が発生する前にまず神経が活動し、そのあとで「意志」が発生したのです。
 これをどう解釈するかは意見が分かれるところですが、多くの人は「意志」というのはどうやら後付けで発生するもので、自分が辻褄を合わせるために創り出しているものらしい──と解釈しています。
 ただし、不思議なのはこの後です。
 意志が発生したあとは、自分でそれをキャンセルすることが可能なのです。
 欲望自体は止められないが、その行動は止められるということです。
 さらにこの研究は進み、2008年に「ネイチャー・ニューロサイエンス」に掲載された、「人間の脳における自由意志の無意識的決定(Unconscious determinants of free decisions in the human brain.)」という論文では、ある状況下では意識的に決定する10秒前に無意識的な意志決定がなされているという主張もされています。
 以上のような科学的なデータからも「自由意志」というのは存在があやふやで、そうとう厄介な問題だとわかります。
 けれど、この社会の決まり事や法律は、自由意志の存在を前提として作られています。
 正常な理性が働かないような状態で起こした犯罪は刑が軽くなりますよね。
 これは人間は基本的に理性的であるという前提に基づいているからです。


よりよい生活のために役立てます。