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夏の方舟 #02-06

06

 翌日、水無月は蒸し暑さと蝉の声で昼頃に目覚めた。
 頭痛薬を飲んで縁側の引き戸をあけてぼーっと風景をながめる。
 感情がまた死んでいた。夏の陽射しにみずみずしい色をしているはずの風景も、ただ灰色と白のコントラストのある風景だとしか思えない。
 ふらふらと歩いて玄関から出ると、灼かれたアスファルトの上で風景が歪んでいた。
 奇妙に傾いだ身体でうろ覚えのまま道を辿り、なんとか人見の店にたどり着くと、クーラーが良く効いたひんやりした空気に息が楽になった。

「ひどい顔ですね」

 どかりと革張りの椅子に座ると、水無月は言った。

「あなたは、知ってるんですか……黒坂の仕事のこと」

 人見は淡々と手を動かし、圧力釜のようなハンドルのついた消毒用のオートクレープの中へニードルを入れた。その態度がすべてを物語っていた。

「なんなんですか……あの店は。どうして黒坂はあんなことを……」

「あれは聖にとってはひとつのアートだと私は思っています」

「アートって言えばなんでも許されると思ってませんか」

「いやいや。ほんとです」

 水無月が黙っていると、

「昨日の話の続きをしましょうか」と人見が言った。

「あなたの話はもういいので……黒坂の話が聞きたいです」

「君は正直ですね……最後まで聞けばあの子も出てきますから」

 苦笑しながら煙草に火を付け、人見はまた話し始めた。

 どこまで話しましたか。そうそう、確か、私が薬に溺れて刑務所に入り、別れた妻が聖を連れて島に行ったところでしたね。

 刑務所は耐え難い地獄でした。番号で呼ばれたり一人になれないのはともかく、それよりも薬が手に入らないことのほうが絶望的でした。薬は拘留中に抜けていたはずなのに、それでも絶え間ない離脱症状で何度も作業中に気を失いました。そのたびに独房に入れられ、発狂しそうでした。手は震え、身体中から冷や汗が噴き出し、垂れ流された糞と小便は部屋の隅にある穴の中へ吸い込まれていきました。穴が、まるで私の人間性を吸い取っていくような気がしました。

 独房から出るとそとがやけにまぶしくて、目を開けていられないほどでした。身体中が老人のように骨だけになり、一日に何度も眠くなってしまうのです。

 私は完全に廃人になっていました。今のあなたと同じように、すべての感情が失われ、景色も色もすべてが灰色になりました。
 山城さんが面会に来たとき、私はもう完全に人生を投げていました。自分の人生はこういう運命として決まっているのだから、もう見捨ててくれと言った私に、あの人はこう返したのです。

「おまえが本当にそういう運命を選びたいならそれでいい。運命は自分で決めることができるのだ。運命が決まっているか決まっていないかすらも」と。

 まわりくどくて良く理解できませんでした。でも、それについて考えているうちに、私が本当にやりたかったことはなにかを見つめ直すきっかけになりました。

 刑務所では集団で並んで入浴するのですが、ある日の入浴時、私は同房の前に並んでいる男の背中に目を奪われました。男の肌に絵が描かれていたのです。黒一色ですが、濃淡をうまく使った水墨画のような素晴らしい鳥の絵でした。確か、前にはなかったものです。聞くところによれば所内に彫り師がひとりいるそうでした。

 私は、一六のときに初めて人の身体に絵を刻んだことを、鮮明に思い出しました。もう一度あそこに戻ろう──そう思いました。

 刑務所にはレクリエーションの時間があります。そのときに私は彫り師に逢いに行きました。彼はもう老人といっていい年齢で、休憩時間になると押しピンや針金や釘を使って、器用に墨をいれていました。いわゆるジェイルスタイルです。私は心の底から感動しました。それはこれまで見たどの絵よりも、見事な芸術に見えました。自分が絵描きであったことを思い出したのです。

 私は男に弟子入りしました。
 彼はその年の冬に亡くなりましたが、その頃には教えてもらうことはないほど上手くなっていました。思えば私はそれまで人のために絵を描いたことがなかったのです。こんな場所で、誰かのために絵を描いて喜ばれるという経験が得られるとは思ってもいませんでした。

 人生の底で、私を救ってくれたのは絵でした。

 芸術が私のかすかな人間性を目覚めさせ、もういちど生きるための力をくれたのです。

 薬が完全に抜けるまで二年かかりました。

 刑務所から出ると、私はその足で名古屋に向かいました。そこにはあの老彫り師の弟子がやっている店があり、私はそこへ弟子入りしてまる二年、機械彫りの技術を学びました。体調が戻るにつれてもともとの技能ももどってきました。すぐにいいお客がつき、幾人かの頼みで東京に店を出すことになりました。

 経済的にはかなり苦しい毎日でしたが、やっと私は天職を見つけたのです。


「というわけで、私はここでこの仕事を始めました」

「あなたは嘘つきだ……今の話に、黒坂が出てこない……」

「まあ、落ち着きなさい。続きがあります」

 そんなある日、私の前に聖をつれた山城さんが現れました。
 あの子が私を見る目は、憎しみにあふれていました。そうでしょうね。多感な時期でしたし、私のせいで人生がめちゃくちゃになってしまったのですから。一緒に住むようになってから、あの子はほとんどあの部屋から出ませんでした。

 私はただ仕事を続けました。息子が荒れているのは知っていましたが、私にはどうすることもできませんでした。警察の厄介になったことも一度や二度ではありません。

 けれど、数年前から聖は自分の店を持つようになりました。そこで、自分の中にあるなにかを解放するようになっていきました。


「世の中には、光をあびない影の芸術というべきものが存在するのです。私のタトゥーもそうです。人生の底で私が見つけたもの。肌に絵を彫ることは、世間では禁忌の対象です。聖のやっていることも同じです。けれど本来、人がなにかを表現することに、禁忌などない。それがどれほど異形のものでも──」

 苦笑する人見を前に、水無月の平坦な心に、ふつふつと怒りの感情らしきものが湧いてきた。

「表現なんてどうだっていい。聞いていれば、あなたが……黒坂の人生をめちゃくちゃにした張本人じゃないですか」

「そうですね……本当にそうです」

 人見は瞳孔の開いた瞳で、肯いた。

「黒坂に謝ったんですか」

「何度ももう、謝りましたよ。口では許しているというんですが……本当は恨んでるんでしょうね」

「この仕事が彼を不幸にしてまでやる価値がある仕事だとは思えません……こんな、仕事……」

 そう口にしたとき、初めて人見の瞳孔がネコ科の動物のように鋭くなった。

「こんな仕事、ですか」

 水無月は湧き上がる嫌悪感を抑えきれずに立ち上がった。

「帰るんですか」

「……すいません……ちょっと気分がすぐれないので」

「ええ。かまいません。お好きなだけいるといいでしょう。そうそう。もし、体調が戻ったらでかまいませんが、しばらく手伝ってみませんか、私の仕事を」

「……考えておきます」

「お願いします。働いてくれたら、聖の秘密を教えてあげます」

「……それはすごい秘密ですか」

「ええ、すごいですよ」

 人見は肯いた。

 家に帰って部屋に敷かれたままの蒲団の上に寝転ぶと、天井を見ながら水無月は自分がなにをしに来たのかわからなくなった。ここ数日、理由がつかないことだらけだ。こんなにもいろいろなことが理解できないのは生まれて初めてかも知れない。聖、人見、麻美子、彼らのやっていることが、すべて水無月には理解できない。
 感情が疲弊して、ますます擦り切れていく。灰色の景色は戻らず、ただ重々しい気分だけが残る。
 生きる意味がわからない。
 自分が存在している意味がわからない。
 このままではここにいるあいだに死んでしまうのではないか。そう思うと削りカスのような感情に混じった恐怖がいくらか浮かび上がってくる。死んだら聖に会えないから死なない。そういう消極的な理由で生きているだけだった。

 その日の夜、水無月は麻美子の作った夕食を食べ、フロに入って休んだ。聖は一度も起きてこなかった。食事は部屋で取っているというが、避けられているのだろうか? あるいは、会うのが恥ずかしいのか……詳しく聞く気が起こらなかった。
 翌日の昼、水無月は店に顔を出した。聖が寝ているならやることはなにもない。かといってこのまま島へ帰ることもできない。居候を続けるのも心苦しいが……他に行くところがない。ならばせめて少しは仕事を手伝おう──そういう結論に達した。
 水無月は案外小心者だった。
 しかし……家でパソコンを前に、コードを書いてばかりいた自分が手伝える仕事なのか?
 一抹の不安が残った。

(つづく)






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