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夏の方舟 #03-03

#03


 日が暮れるのを待って、巻村と小田桐は鶯谷の飲み屋に入り、酒を飲んだ。
 巻村はハイボールを一杯飲んだだけで、あとは小田桐がひたすらビールを飲み続けていた。暑さのせいかいつもよりペースが速い。いい塩梅に出来上がった頃に、「そろそろ行くか」と小田桐がよろけながら立ち上がった。
 鶯谷の駅から入谷のほうに抜ける入り組んだ路地裏を入り、その店を見つけた。
 小田桐がいつもより酔っていることもあり、たどり着くのに苦労した。壁には蔦がびっしりと這っており、そこだけ外国のパブのようにも見えた。アーチを描く古い煉瓦造りの入口から、地下へ下りる階段が延び、ブリキの看板に〈S〉と書いてある。店の名前だろうか。

「ここ、初めてです」

「大丈夫。俺も初めてだ。前に一度通りかかっただけの店だからな」
 小田桐が階段に躓いて「おっと」と、よろけて巻村に倒れかかる。
 二人は階段を下りきったところにある、錆び付いた金具が打ち付けられた木の扉を開いた。

 店内の照明はうす暗いが、全体がまるで骨のように真っ白に塗りつぶされているため、ぼんやりと発光して見えた。
 中はカウンターと丸テーブルが六つ、ほとんど席は埋まっている。
 不思議なことに客が全員、仮面舞踏会のようにマスクをつけていた。服装はスーツや高そうなドレス──決して広くはないこの空間にはそぐわない。
 一番おくに小さなステージらしきものがあったが、今は重々しい垂幕がかけられていた。
 棚においてある酒はみな高級で、調度品にも気品がある。

「いい店だ」

 二人が白いスツールに腰掛けると、彫りの深い顔に黒革の眼帯をつけた四〇過ぎくらいのバーテンダーが入口のドアにかんぬきをかけて戻ってきた。

「いらっしゃいませ。失礼ですが、当店は会員制でして。どなたのご紹介でしょうか」

 二人は顔を見合わせる。帰ろうと腰を浮かせた巻村を制して、小田桐が余裕の表情で名刺を渡した。

「私、こういう者です」

 そう言ってバーテンダーになにか耳打ちした。

「ああ……なるほど。しかしながら、当店にはドレスコードがございまして──」

「次から気をつけるよ。今回は仕事の一環なんだ」

「仕方ありませんね。今回は特例ということで──では、ご注文を」

「レッドアイ」

 なにが起きているのかわからずに、巻村はジンジャーエールを注文する。
 小田桐が耳元で「わかったか。名刺の使い方」と囁いて、バーカウンターのおくを指さした。そこには大小いくつもの人形が並んでいる。こうした耽美的な趣味の店にはよくある光景だ。

「ダメもとで、うちが納品したドールの調子を見に来たって言ってみた」

「うちのじゃないです」

「わかんねーよ素人には」

 酔っぱらいのくせに、とっさによく頭が回るものだと巻村は純粋に感心した。

「なんか変わった店だな。かわいい子いるかな……みんな仮面つけてるからわかんねえな」

 東京の東はスカイツリーができてから、観光客や、外国人の客が増えた。小田桐はそんなおのぼりさんや外国人の女を狙ってバーでナンパをするのが趣味だった。
 巻村が連れ出されるのは「ゲイカップルのふりをしてると女の警戒心がうすまる」という理由だ。
 馬鹿馬鹿しい──そう思ったが、驚いたことに小田桐の言葉は本当だった。ゲイのふりをするだけで大抵の女は警戒心をといた。
 巻村はいつも途中で帰るので最後までつき合ったことはないが、小田桐によれば口説いた女はほとんど落とせているらしい。

「すげえ美人がいる」

 脇をつつかれて、巻村は嫌々ながらそちらのほうを見る。
 最初、巻村はそれが人形だと思った。店のおくのステージ脇にある豪奢なロココ調の安楽椅子に、ボッティチェルリの絵に描かれている花の精のように、うすいドレープを重ねたドレスを着た小柄な女が座っていた。頭に載せた花冠。亜麻色の髪と白い顔、青い目──巻村は自分の心臓に大量の血液がなだれ込むのがわかった。
 似ていた。
 安楽椅子に揺られながら、硝子玉のような目でステージを見つめている姿は、背恰好もそうだが、髪型や雰囲気、鼻のかたちまで、あの女によく似ている気がした。
 頭を振ってよく見つめる。似ているわけがないのに、なぜかそっくりだという妄想がぬぐえない──眺めていると、黒い石炭が熱で赤く発光するように仄暗い情念が灯るのがわかった。背中に厭な汗が流れる。

「人形も人間も同じだな。黄金比に近づけば近づくほど顔の印象がうすくなる──どうした」

「いえ」

「珍しいなおまえが見とれるなんて。そうか……わかった。俺に任せろ」

 なにがわかったのか、あわてて制止しようとする巻村を押しのけて小田桐はグラスを持ったまま女に近づいて話しかけた。

「ねえ、ちょっと話さない? 名前は?」

 女は安楽椅子から微動だにせずに目だけを動かし、小田桐の身体を上から下までじろじろと観察し、ハスキーな声で「エス」と短く言った。S、店の名前と同じだった。

「そう警戒しないでいいよ。俺は女に興味がない」

「ゲイ?」

「あー、まあそんなかんじ」

「嘘だろ」

 Sは興味なさそうに視線を逸らして、ステージを見つめながら言った。

「姑息なナンパ手段。頭スカスカの馬鹿女としか寝たことがないクズがやりそうなことだ」

「は?」

 小田桐はなにを言われたのか理解できず、ぽかんと間抜けな顔をした。それから、照れたように笑ってごまかした。
 軽薄なその態度を見下すように、唇を片方つり上げて女が言った。

「笑えば冗談になると思ってるんだ。ママはいつもそれで許してくれた?」

 小田桐の顔が真っ赤になった。酒で酔うのとは違った顔色。グラスをテーブルに叩き付ける音が店内に響いた。一瞬、店内のざわめきがシンとして、仮面をかぶった客たちがこちらに注目した。バーテンダーがさり気なく成り行きを見守っている。小田桐がじっとしていると、客たちは興味を失い、すぐにまた各々の会話に戻っていった。
 小田桐は少し咳払いして平静をよそおって言った。

「面白いプロファイリングだミス・レクター。人肉をごちそうしよう」と、巻村の肩をつかんでSの前に突き出した。「こいつとはいつも二人でケツの穴を掘り合ってる仲なんだが。君に興味があるらしい。好きに扱ってくれ」
 棘のある口調でそう言うと、調子を削がれた小田桐は離れたカウンターに戻ってスツールに座り、不機嫌そうにひとりで飲み始めた。Sの前に差し出された巻村はどうしていいかわからず、ただ所在なげに立ち尽くす。

「すいません。飲み過ぎているらしくて」

 Sは巻村の瞳をのぞき込んで言った。

「しねよ」

「え?」

 問い返したがもう冷たい横顔は、本物の人形のようだった。Sは声が聞こえていないかのように巻村を無視した。香水だろうか、薔薇の香りがした。
 バーテンダーがカウンターから出てきてSになにかを耳打ちすると、彼女はゆっくりと立ち上がり、ステージの垂幕の後ろへと消えていった。同時に店内の照明が落ちた。

 ──闇。
 なにも見えない。
 巻村はあたりを見回す。
 アクシデントではないだろう。観客のくすくす笑いから察すると、これはなにかの余興だ。電車の中の少女たちから醸し出されていた空気、秘め事を共有しているものだけが持つ、あの厭な感じ──巻村はそれを感じた。
 鼓動によく似た重低音が、脈打つように鳴っている。
 ゆっくりと、目が闇になれてくるにつれて、あたりの風景がぼんやりと浮かんでくる。音がひときわ大きくなり、身体のおくまで響くように高まって──唐突に消えた。
 ──無音。
 次の瞬間、ステージの垂幕が左右に開く。
 天井から降り注ぐ、豪奢なシャンデリアの光がステージ床の白黒格子模様のタイルに散らばり、背後の壁に貼られた古い外国の地図をぼんやりと照らしていた。
 スポットライトを浴び、舞台の真ん中に眼帯のバーテンダーが現れた。

(つづく)






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