見出し画像

ゆたかさを追い求める入り口は、自分に問いかけること


 ゆたかさ。

 その概念についてきちんと考えようとすると、不意に八方塞がりになる。

 ゆたかである、ときいて、たとえば、お金であったりものであったり、家族や友人などの人間関係であったり、趣味であったり、仕事であったり、生活を構成するさまざまな要素について浮かぶ。

 けれど、お金持ちでも不満足で心が満たされずに生きている人はいるし、貧困に喘ぐ人々はそのコミュニティで一見絶望的なほどの暗闇に息づきながらも力強く生きている。かつて日本は戦争をしていて、たとえば太平洋戦争に関する書物などを覗くと、そこに描かれるのは絶大な苦難であり、しかしその苦難と戦い生きることそのものが克明になっている。

 価値は個々で異なり、また時代によっても変容する。戦で大将首をとることが最大の価値と考える時代もあれば、自然を唄う美しい一文に想いを乗せることが最上の価値と考える時代もあるし、仕事が第一で社会の発展のためにあくせく働くことが最高の価値と考える時代もある。

 これというかたちがまったくない。だからこそゆたかさは概念である。


 ところで、使い古されたフレーズだけれど、生き物はいずれ死ぬという必定のもとに生きている。

 なにを成そうと、成さずとも、公平に死は訪れる。それは、純粋に年齢による身体の衰えによるものかもしれないし、病によるものかもしれないし、災害によるものかもしれないし、暴力によるものかもしれない。生まれて間もなく消える命もあれば、百を超えて人生を全うする命もある。生きている限りは、生きなければならない。しかし、どうあれ人は必ず死ぬ。

 いずれ死ぬというなら、私たちに与えられた生きる意味とはなんだろう。

 純然な生物としての目的は、無論、子孫を作ることである。そこに生きているということは、誰かによって産み出されたという揺るぎない事実が存在する。かつて産声をあげた私たちは、いずれ生命を産み出し、そうして人類が絶滅しないように生命のリレーを続けていく。使命ともいえるだろう。

 けれど、人間はそう単純ではなくなった。子供を産み育てるということは確かに個人に対し貴重な経験になり得るが、考え方が多様化し、子供を産まないという選択肢も結婚をしないという選択肢もある。同性同士だと現在の科学ではお互いだけでは子供を作ることはできない。無生物を愛する場合もある。そこにあるのは、人類の繁栄だとか存続だとかそういった巨大な全体意識ではなく、個人の意志になる。

 個人がどうしていくか、がこれからに向けて大きな問いかけとなっている。

 生きる意味とは何だろう。意義とは何だろう。

 答えがあるとすれば、問い続けたその先に答えは無い、ということである予感がしている。


 ゆたかとは何だろう。
 ゆたかではないとは何だろう。

 自分の心に、ゆたかであるかどうかを問いかけ続ける。

 ゆたかになりたい。もっとゆたかになりたい。そう考えて、必死になって現代日本は構築され、その延長線上に私たちはいる。そして、よりゆたかになりたいと、底の無い欲を抱いている。

 この問いは無限に続いてゆくのだろう。

 肥大化する全体的なゆたかさの前に、私たちは、個人を問いかけられている。巨大な流れの中に生きる、「私」や「あなた」に向けて問いかけられている。あなたにとっての、ゆたかさとは、何?

 それぞれが、それぞれの形にあったゆたかさを問いかけ続け、模索していけば、きっとこの抗いがたく加速する世界の発展に人間のこころが追いついて、それぞれの純粋なゆたかさが見えてくる。

 その先にはっきりとした答えはないかもしれない。ゆたかとは概念であり、それぞれの心に宿るものだから。だから個人によってかたちは異なる。誰かの教えも、誰かの答えも、誰かの経験も、誰かの知識も、参考にはなっても、思考の足がかりにはなっても、ほんとうのかたちにはなりえない。

 ゆたかさとは何だろう。
 生きる意味とは何だろう……。


 ……。


 自分のたいせつだと考えるなにか。

 自分のたいせつだと考えるなにかについて、没頭しているときの、多幸感。そして理想的にはならない現実への、絶望。幻滅を繰り返すうち、思わぬかたちに突然変異する、驚き。

 自分のたいせつだと考えるなにかをじっと追い求め続けること。

 私の場合、自分の心や身体の枠を超えて膨れ上がってゆくようなおもいを文章などのかたちに昇華する行為であったりするし、今後変容する可能性もある。けれど形態はどうあれ、何かを創ることに大きな喜びを感じる。

 人によっては、文章だったり、絵だったり、恋愛だったり、子供だったり、音楽だったり、会社だったり、様々だ。どれがいい、どれが違うといった境は無い。なぜなら個人で価値観は異なるから。そして、どれかひとつでなければいけないということもない。生きるということは、多様な出来事の集合体で、多くの影響を受け続けるからだ。影響を受ければ、こころのかたちは柔軟に変わる。

 追い求め続けたいと考えるなにかに出逢い、思考するとき、ゆたかさについての長い旅は始まっている。ゆたかさはどこまでも拡張する。ゆたかさとたいせつななにかのかたちは恐らく似ている。たいせつなものに対して、私たちは切実さと願いをこめて、真摯に向き合うことができる。だから無限に追究することができる。物事を多方面から見つめ、感性は磨かれ、思考は深まり、ひいては世界、つまり他者への理解が深まり、まさしくゆたかになってゆく。そういった行為を時に、愛と呼ぶのではないのだろうか。

 それはきっと、そう遠くないところにヒントがある。たとえば、自分の心の中に。てのひらの中に。

 難しく考えることではなくて、一度自分のたいせつだと考えるものを紙に書き出してみるといいと思う。

 そして、目を見開いてみる。

 その先にある、それぞれにとっての、ゆたかさという、ほんとうのかたちを見つめるために。

 改めて問いかける。問いかけ続ける。八方塞がりではない、勇気を持って踏み出せばどこまでも広がっていける、自分自身にある宇宙への問いかけ。

 私の、そしてあなたの、ゆたかさって、何だろう?

たいへん喜びます!本を読んで文にします。