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朝の記録 0305-0311

3月5日(金)の断片集め

 Notionいじりが止まらない。いじっていると少しずつわかることが増えてきて、読書記録や映画記録、家計簿、そうしたことに手が伸びているのであるが、「気になること」欄なるものを作り、「見たこと」「今必要なこと」「覚えておきたいこと」「なんとなく気になること」といったすごくぼやぼやとした分別にして、主にWebで見かけた記事や動画やツイートなどなんだか琴線に触れたり目に留まったものをとりあえず「見たこと」に放り込んであとから他のところに分別していくといったそうしたものを作成してみると、日々高速に過ぎ去っていく中で絶対忘れることごとが可視化される。忘れてもいいようなしょうもないものもあるのだけれども、なんとなく「おっ」と思ったものはたとえTwitterであっても転がっていて、そういう何気ないことが保存されていったり、ものすごく大事だと思ったことが保存されていったり(退職後にやるべきこととか)、なんだかほっとする。人間忘れるもので、忘れるのはいいことだけれども、なんとなく保存されていてほしいことがたくさんある。

 日記もそういうものなのかもしれない。日々の移ろい、その瞬間に確かに存在している証明、そこに人間が存在していて何かしら思いを抱いていたという事実の証明が、欲しいのかもしれない。いつ死ぬかわからないし、掃いて捨てるほどの巨大で有象無象のことばたちの中に埋もれても、どこかに保存されていると思うとなんだか、何者でもないけれども、存在はしていた、そういったことを考える。

 もちろん書くことで見えてくるものがある。日々の中でどういったことに興味を抱き、疑問を抱くのか。それはすなわち物語の種で、なにひとつ、生きていてなにひとつとして、ほんとうに、無駄なことなんてないんじゃないかと思うのだ。無関心が一番敵なんじゃないだろうか。興味をもつもたないの境界線。閾値は低ければ低いほど生きるのはとてもしんどいだろう。無視していた方が、怒りを抱かない方が、悲しみを感じない方が、喜びを赤裸々に発散しない方が、楽なことって、時にはある。いずれにしても感情の平衡を大きく揺らがして目の前のそれだけが見える状態になる。けれどもこの世にたくさんある喜び、そして憂い、矛盾、疑問から目を離せば、楽にはなるかもしれないけれどそれってどう考えてもつまらない。感情的な話ばかりが並んでいるけれども、何も感情の話ばかりではない。ただあらゆることの契機は何かしら感情に由来する気がする。私は知らないことが多すぎる。そして知っても、学んでも、すぐに忘れていく愚かさの中で生きている。保存できるのであれば、振りかえることができるのであれば、知ったその瞬間に立ち返ることができるのであれば、それはいいことなんじゃないだろうか。そうしたことごとのつらなりの中でまた書くものも浮かんでくるのかもしれない。

 他愛もない日常。ドラマもない倦怠。些細な悲しみ、喜び。忘れていくことごと、忘れたくないことごと。人によって世界の見え方は異なるということ、フィルター。どうあがいてもわかりあえない。わかりあえずとも、わかりあおうとすること。どんな環境にあっても、人は神様を、光を何かしらに見出そうとすること。

 そうした断片的なものが合わさって、何か書きたいような気がする。それで昨日書き出してみた。プロットも立てずに書いてみると300字程度で手が止まった。きっとまた長い旅が始まる、と歓喜よりは安堵に近い、そして同時に絶望を抱いて、ねむたくて、苦しくなりそうで、それでも離れられない。

 日記の中で、日々の中で、ことばの種が散らばっている。小説を書こうとしている時、あるいは書いている間、しばしば暗闇の中で途方に暮れる。どこにも浮かぶものはないと奈落の底にでもいるような気分になるけれども、外側にはちゃんとその断片は存在しているはずだった。その断片を深掘りして繋げていくようにして、果たしていつか物語は育つだろうか。

 なので断片を拾い集めておくことはうっかり何かしらのきっかけに繋がっていくから、このNotionいじりもまだ続きそうである。たぶん、バレットジャーナルと実は感覚が近い。もっと使いこなしたい。ようやく完全に手持ち無沙汰だったiPadがiPadとして今更のように活躍している気がする。

 やりたいことがたくさんある。

 昨日はそういうわけでやっぱりキーボードとかフィルムとかカバーとかそういったものは可愛いiPadには必要なのではないかと思い電気屋へ向かう。手指消毒した後、久しぶりにキーボードコーナーでがしがしあらゆるキーボードをタイピングしてみる。楽しくて笑った。普段もポメラやらなんやらで日々打鍵しているけれどもやっぱりこのタイピングという行為それ自体がけっこう楽しい。そこそこ厚みがあってカタカタカターとちゃんと音がするものが楽しい。いつだったか神木隆之介がYoutubeの初期で音フェチでタイピング音を聞き分けてどれが一番自分にとって好みかという、私もタイピング音大好きなのでめちゃくちゃ彼の気持ちは分かるけれどもYoutubeのコンテンツとしては神木隆之介だからこそ許される、万人にとっては果てしなくどうでもいい(でもすごく楽しそうなのでオッケー)動画を見た、そのことを思い出した。

 頭からすっかり抜け落ちていたけれどもiPadは日本語配列ではなく英語配列なので、英語配列のキーボードが推奨される。そしてBluetoothで接続されるので自然ある程度限られる。かたかたといろいろと打ち続けてたぶん三十分は余裕で売り場でずっと叩き続けていた。それだけでだいぶ楽しかったが、悩んだ末に買うのはやめた。本当に必要かわからなかった。でもわりと本当に必要かもしれないと思いつつある。パソコンが素早く稼働してくれる使いやすければそれで済むのだけれどもパソコンを買おうと思ったらとんでもない出費になってしまうのでやっぱりここはiPadをもうちょっと使いやすくして、日々生活する分にはタブレットとスマホがあればもう十分というかタブレットが実質ミニパソコンみたいなことになっているのでそれをもっとパソコンらしく接続していきたい、Notionいじりが白熱しつつある今余計にそう思う。だからたぶん近いうちにまた行く。ケースとフィルムは買った。溜まったポイントを使ったら半額くらいになった。Apple pencilを常時タブレット端末と共に持ち運べるようになった。有難かった。

 その後はカフェへ向かって読書。「パリの砂漠、東京の蜃気楼」を読み終えてぼんやりとしていたけれども開いたのは「いつかたこぶねになる日/小津夜景」で、なんか全然意識していなかったのだけれどもこの人もフランスに移住したんだったということを読みながら思い出し、何故かフランスに関する本を当時同時に買い、そして今回続けざまに読んでいるということになる。

 私は漢詩について全然詳しくない。知識ゼロに等しい。李白とか杜甫とか、そういえば学生時代の古典で触れたなあとそれくらいである。センター試験やらなんやらで読み方を学んだはずだがすべてこぼれ落ちている。なので傍に漢詩が存在している生活というのがいまいち想像できない。しかしこの「漢詩の手帳」と副題をつけられた「いつかたこぶねになる日」というエッセイは、それぞれ必ず一作は漢詩が引用されている。漢詩への造詣の深さは言うまでもないが、漢詩に限らない知識の広さと深さ、そして日常との接続が巧みで、何よりも日本語が読んでいてとても気持ちがいい。楽しくて、ときどきうつらうつらとしながら読んでいた。陽光が窓から差し込んでいた。苦めのコーヒーが舌を深くなぞった。


3月6日(土)の音楽

「いつかたこぶねになる日」を読み終える。音楽に耳を傾けているかのようだった。美しい日本語、繊細な言葉たちに惚れ惚れとしながら読み進めた。なんとも、月並みになるが、とても良い文章だった。懐の広い人の言葉に触れると、静かで太平な場所に立っているような気分になる。ずっと読んでいたくなる本だったが、漢詩と漢詩の説明、そして作者の日常の断片をゆるりと往来しているうちに、終わりが来てしまった。

 昨日で実質的な退職まであと十日だったので今日はあと九日ということになり、ついに一桁台に乗ってきた。つい一ヶ月くらいまでは辞めることへの不安が大きかったが、お調子者はいつのまにか安堵へと切り替わっている。今ここで感じている痛みや息苦しさはあともう少しで距離を置くことができるのだという安堵。多くの人間関係からの離脱。これからどうなっていくのかは未だ分からないままだし、すぐに次へどこか就職するというわけではないから形がないままに漂っていくだけでそれはどんどんはみだしていくということなのに、日々ささくれだっているとひしひし感じる環境からはとりあえず離脱する。声にドスを聞かせるように(本人にそういうつもりはないだろうしそういうつもりがあるのなら余計にたちが悪い)Zoom会議をしている上司の声を聞きながら、もう少しだ、と思う。

 誰かと交わる瞬間がある限り、そのすべてを煩わしさなく過ごすなんてことあまりにも困難だし、環境を保つためにお互いうまいことやっていこうとしたり気分良くあろうとすることは大切なことだろう、特に日本では、社会的な側面として。それでもなんだか随分と疲れてしまった。何気なく吐き出されるストレートな苛立ちやひどい言葉を聞くのも言うのも一度リセットしたって、ばちなんか当たらないだろう。弱い。打たれ弱い。大事だと思うことがより浸蝕されていく前に去って行く。それがあともう少しだな、という、感慨は、実際のところあまり無く、日々当然の日常を昨日も今日も明日もずっと平行線で歩んでいく。


3月7日(日)の「いいこと」には嘘をつかずにあれる

 今でも「どこかの汽水域」に収載している「いつか声は波を渡る」でとりあげた形が良かったのかわからない。ずっとわからないまま、進んでいくのかもしれない。正しさはどこにもない。間違いならば出てくるだろう。

 有難い話なのだけれども、「どこかの汽水域」そしてこれから自分の手から出されていくかもしれない本というのはきっと、自分の力ではなく誰かの力によって少しずつ広がっていくんだろう。初動というのは自分由来のところがたぶん大半を占めているけれども(普段の文章を読んで下さっていて好きだとか、昔馴染みだったりとか)、最初を越えてからはそうして渡っていった本が、その存在を知らなかったり興味はなんとなくあるけれど手元に置いておくほどではなかったりする方に勧められたり読了ツイートなどで知られていってそれで広がる。それはもう書き手の力というよりは読み手の力だと思う。本を出してからは自分にやれることなんて宣伝くらいしかもう残されていないのだが、その宣伝が苦手で、他者の力をお借りしているようだった。支えられてるなあと思う。今でこそたとえ立っているのが自分一人であったとしても書き続たい、というか書き続ける他にない、ということを呑み込んでいるけれども、ちゃんと、ものすごく支えられているということも事実として受け止めている。読まれないのが当然という基盤のもとに在り続けているのでつくづく有難いというか、縁を感じずにはいられない。自分の力だけで立っているなんて勘違いも甚だしい。

 退職にあたって所属部内の全体それぞれ一個ずつくらいは手に渡るだけのお菓子かなにかを買わねばなあと思ってそれを今日買いに行こうと考えているのだけれど、そうではない個人として渡したい人のことを考えて、リストアップしてみると、想像していたよりも何人もぽんぽんと出てきて驚いた。同期と、社会人一年目のときからあまりにもお世話になり続けている人くらいかなーと思っていたけれど、書いてみるとあの人にも、この人にも、と出てきた。たぶん、単純にこういう誰かに贈り物をすることが嫌いではないということもある。それはそうとして、特に人間関係においてかなりドライな人間である自覚があるのだけれども、自分にもちゃんとこういう、暖かさというか、心があるというか、この贈るという行為には感謝が込められていてちゃんと感謝を伝えたい人がたくさんいるということを今更のように目の当たりにし、日々呪詛を胸の内で唱えながらもそれでもここまで多くの人にお世話になりながら迷惑をかけながら生きてきたということを思う。社会人になって就職したら仕事と睡眠で生活時間の大半を占める。お互い大量の時間を共にしてきた人たちなのだった。人に恵まれていた。それは思い込みではなくて、きちんとそうだったのだろう。

 それでも去るしそこに今のところ後悔もない。


 フヅクエをやっていると、全然嘘をつかずにやっていられるな、ととても思う。
 なんせ読書の時間が好きだし読書の光景が好きなので、どんな無理も矛盾もない。(@fuzkue twitter)

 このツイートの潔さに胸を打たれたのが深夜眠れずにうだうだとスマホを起動した時のことだった。

 全然嘘をつかずにやっていられる、それは、意外とすごいことだと思う。歳を重ねるほどに難しくなっている気がする。嘘をつかずに生きていけること、それは自分にとっても楽だろうし、取り組んでいることごともどんどん素直に洗練されていくだろう。フヅクエの考え方の、まっすぐとした理念、思い描く理想を実現するにはどうすべきなのか常に考えて行動に移していること、それがとても見えやすい印象で、気持ちがいい。そこにはまた目に見えない困難があるだろうけれども、応援したいから日記を読んで、東京、行きたいなあとぼやぼや考えながらも、緊急事態宣言が延長されてしまったので燻っている。

 それよりも今は小説か。ちゃんと頑張ってがりがり書かなければ、である。気合いを入れて外でがりがり書こうか。

 夜はここのところご無沙汰していた「プルーストを読む生活」を開いていた。

 自分のことは自分で決める。そういう態度があってはじめて民主主義は成り立つ。これって実はかなりダメな制度設計なのかもしれない。ルールというものが為政者を含めたすべての民たちのプレイを規定するものとしてあると考えられずに、為政者によって与えられる規則としてルールがあると信じられてしまったら、あっという間に自分のことを「他人に決めてもらう」ようになる。しかも「基本的に人は他人に決めてもらいたい」というズボラさがある。僕だってなんでもかんでもは自分で考えたくない、どうでもいい考え事は外注したい。しかし僕は、自分がどのように生きていくかは、何に寄与して何に与しないかということは、いつだって自分で決めたいのだ。ルールは声の大きな人に好き勝手させないためのものだ。強くて声の大きな人が他人を思うままにしようとすることをいかに抑え込むか、弱くて声の小さい人でものびのびと生活をプレイしていくためにこそあるのがルールだし、文明というものだと思う。弱くて声の小さい人がいうことをきかせられて、生徒根性たくましくますます弱く小さくなっていくようでは、わざわざ文明というものを発展させてきた甲斐がないじゃないか。
 僕は弱いし声も小さいが、パワースーツも拡声器も特に欲しくはない。弱くて小さくても、自分にはこのくらいできるはずという自分との信頼関係のもとに、コツコツ自分の信じる「いいもの」を育んでいけると信じているからだ。そうやって「いいもの」を作って育てていければそれでいい。力こそパワーな下品な大声によって、「いいもの」が掻き消されてしまうのはごめんだ。(プルーストを読む生活 P481-482)

 ああこの世の中にもこういう人がいて、そして恐らくは私の考えているよりもずっと多くの人が、コツコツ自分の信じる「いいもの」を育んでいける、それぞれの「いいもの」に向き合っている人がいる、それを見失わないように生きようとしている人がいるというのは、きっと捨てたものじゃないはずだなこの世。

 他人に決めてもらって楽なのは、自分に責任が生じないからということもあると思う。でも他人に決めてもらおうと決めたのは自分なのだからそこには何かしらの責任が生じているはずだし、そして何よりも自分自身の人生というのは自分しか責任を持てない。

 嘘をつかずにいられるようにすること、「いいもの」を育んでいくということ、それらはとても似た色を帯びている。底に共通して流れているのはつまり、自分の信じるものをまんなかに置いている、ということのように思う。さらっと書いて、そんなの当然じゃんと思われるかもしれないけれど、信じていたら裏切られることだってあるのだから私はほどほどのものをまんなかにして生きてきてそれでいいと思っていたら自分の人生くらい自分の足取りで歩んでいきたいわとブチッと切れて自分の信じたいことをまんなかにしようとしていて、それははっきりとした光に照らされているわけではなく暗闇の中で弱々しい灯だけが存在している。その光は強くなることはないかもしれないが、次々と音もなく灯っていって増えることはあるかもしれない。それは暗闇が深くなるほど星がよく見えるような、そうした弱い光かもしれない。暗い方へ向かっていくほどに見えるのなら潜っていく、自分の足取りで。だから今日は畑に行って、そしてどこかで小説を書き、本を読もう。


3月8日(月)のひらかれた対話

 晴れてはいたが風が冷たい日だった。畑でコマツナとレッドレタスとナバナと茎ブロッコリーをさくさくと収穫。春キャベツの結球がしっかりしてきて、春ブロッコリーもちゃんとした大きさになってきてテンションが上がる。サヤエンドウが麻糸にうまく絡まっていないので低めの位置で張り直す。大根が結構大きくなってきたがまだまだ育ちそう。枯れた葉っぱをぶちぶちと取り除く。小さな蜘蛛がさささっと防虫ネットを横切っていく。益虫なのでにこにこしながらその動きを追う。

 畑が終わったら大丸へと移動してデパ地下で退職のお礼として渡すお菓子を買いに行く。Twitterで友人の奥様が立派ないちごタルトを作っていて感嘆していたら、エスカレーターを降りてすぐのところでいちごタルトを売っていて笑った。今はどこもいちごを推しているシーズンなので、どこにいってもいちごだった。いちごのお菓子は好きなのでウェルカムだが、今回の目的は自分のためのものではないので目移りしながら目標を定める。なんでこんな人が多いんだろうと久々の人混みに辟易としていたが、そういえば来週はホワイトデーということでありそのために催事場が盛り上がっておりそれは私の中で偶然だった。人が多いのはしんどいが、種類が豊富なのはホワイトデーの恩恵だ。全体向けと個人向けで買い込む。個人向けで思っていたよりも渡したい人の人数が多かったという話を昨日したが、改めてやっぱり多いなと思い、ほんとうにこんだけ渡したいかと考え、それでもやっぱり渡したいと思った時に無かったら悲しいから用意することにした。

 そこから電気屋に行ってまたiPad用のキーボードを見に行く。ついでにライトニングケーブルでSDカードを繋げるそういった端末を探しているとApple純正品は売り切れていた。うろうろ動き回るが広くて純正品でないものがどこにあるのかよくわからなかった。平日に来た時にはガラガラだったが、日曜昼間は普通に人出が多いんだなということを実感する。キーボードは狙いどころがなんなのか自分の中で定まった。打ちごこちは勿論大事だが、Bluetooth接続、US配列、充電式、という三点セットが揃っていたらOKというつもりで改めて行くと、売り場にはその三点セットが満たされるものは存在しておらず、すごすごと帰った。

 その後夜にネットで調べているとあっさりと見つかり、しかも青軸の、謎に光ったりするというゲーミングキーボードが高くない値段で売られており、青軸だったら打鍵感は大丈夫な気がするしレビューを見ていても音フェチだという人が気に入っていたので大丈夫かなと思いポチった。ゲームをしないのに思いがけずゲーミングキーボードデビューしてしまった。外で使えないが、もともとポメラがあるので外で打鍵するならポメラで十分だし、家での打鍵だったら過剰にコンパクトである必要性もないとなれば青軸、音、打鍵感、それを重視しても問題ないだろうということになった。SDカードリーダーもついでに買う。安くて評判が良さそうなもの。地味に楽しみだった。順調に充実しつつある。

 しかしほんとうに疲れてしまい、歩き回ったことにも人にも疲れたので、当初は買い物が終わったらどこかでコーヒーでも飲みながら打鍵しようと考えていたが、帰宅することにした。ふらふらとしながらもこれは自分にも甘いものが無いと辛いと思ってスタバでテイクアウトしたクラシックチョコレートケーキ、それにコーヒーを淹れる。ケトルを沸かしている間にわたわたとしていてケトルが沈黙していたから沸いたと思い淹れてそして飲んでみるとめちゃくちゃ冷たかったので衝撃を受ける。ケトルの電源を入れていなかったらしい。疲れすぎていた。こういう天然でボケボケなところがある。仕切り直して温かいコーヒーを飲みながらなにか読もうと思い迷ったところ「つくるをひらく/光嶋祐介」が取り出された。

 表現や創作の根幹に迫るような光嶋さんとの対談をまとめている、といったのがざっくりとした内容で、五人取り上げられていて、最初はアジカンのゴッチ。のっけからめちゃくちゃ面白い。どんどんとお互いの思考が深まっていって、思考の中身をそのまま見ているようだった。そんな風に会話が繰り出されていくの、そんな言葉が出てくるの、面白い、面白い、となりながらその面白さの中身をうまく表現できないことに気付く。密度が高いゆえに。

 こういう、創作をする時や表現をする時の、頭の動きやその人の身体や心の感覚というのには常に興味がある。不思議な言葉の連鎖を目の当たりにしている。ぽんぽんと、思いつく限りの言葉を相手に投げかけては受け止めて違う概念が生まれて返して、そうした対話のように思う。今夜、続きを読むのが楽しみ。


3月9日(火)のキーボードの悩み

 キーボードが届いたのがついさっきのことである。配達を知らせるインターホンの音でようやく起きた。今日は夜勤なので、できるだけ寝溜めしておきたいのでずっと寝ていた。荷物がきたら早速開けてみてそして今やってきたキーボードを使って打鍵してみている。

 結論からしてみると、思っていたより音がうるさいという印象がある。打っていたらそのうち慣れるだろうか、とも思ったりもするのだが、私好みの音ではないかなあという気がしていて、それは自宅というあまりにも静かな環境だからだろうか。試しに音楽を流しながらやってみるとこのノイズ感がやや軽くなるような気もする。でも慣れないような気もする。ただ、さすがにキーボード専用機といったところで、Bluetooth接続でも打鍵した速度と画面表示速度がほぼ一致しているのは、素晴らしいなと思う。当たり前なのだろうか。ちなみにポメラもキーボードとしての接続機能がBluetoothで備わっているのだけれども、そちらは遅すぎて話にならない。そういうことなのでこの点にはとても感動している。充電しながらできるし、ゲーミングキーボードらしい(といってもゲーミングキーボードが一般的にどういったものかわかっていないが)LEDが光るのが新鮮で面白い。

 青軸なのだし、音に関しては致し方ないとしか言いようがないか。打鍵感としては悪くないのだけれども。うーん、音。悩ましいところである。

 キーの配列が特殊なのはそれこそ覚悟していたことではあるのだけれども、こうして普通に打鍵しているぶんには特段気になることはなく、しいていうのであれば「」だったりバックスペースだと思って押したところが\だったりそうしたところはそれこそ慣れていくしかないのだろう。

 しかし、私自身がどれほどポメラやノートパソコンのキーボードに慣れ親しんでいるかがよくわかる。

 そしてSDカードに保存してポメラの方に移行してみる。このあたりはとてもスムーズだ。そしていかにポメラの打鍵が静かかを実感する。iPadとポメラの相互互換がきくようになったというのは大きい。もちろんパソコンも可能だし、なんならiPhoneだってできるはずなので、これは便利。本来はポメラsync機能でとっくの昔にできていたはずなのだが、無線機能が脆弱すぎてうまくいかなかったのである。それはもうとうの昔に諦めていた。

 実感にやってみないとわからないことの方が多いなあ。

 なんというか、音や打鍵に意識が傾きすぎて、文章を紡いだり言葉を引き出したりということに関してはノイズなのかもしれない。それはたとえば本来の使用用途であるゲームのチャットや操作に関してはいいかもしれないが、何千何万と文章を作っていくということに関しては向いていない、というより自分の肌に合っていないのかもしれない。

 今のところアマゾンで返品はしたことがないのだけれども、それも視野に入れてもいいかもしれない。期待していたからこそその落差が大きいのか。どうあれ、意外と打鍵感が良ければいいという話でもないことがわかったというのは、一つの収穫である。なんとなくもったいない精神で持ち続けるかもしれないけれど。いやはやキーボードは難しいものだ。結局ポメラが慣れているので安心する。いつのまにこんなに馴染む機体になっていたのかと逆に驚く。まあもう何年も使っているし、毎日「朝の記録」を書くようになってからは毎日開いては打鍵しているのだからそりゃあ慣れているに決まっているのだった。かなり大きい出費だったが、これだけちゃんと使っていればちゃんともとを取っている。文章打ちに特化しているというのにはそれなりの理由というかそれなりの気合いがこの機体には備わっているのかもしれない。もはや全然気にしていないのだけれども。

 でもNotionだったりそういったアプリをいじる程度ならばこの青軸キーボードでもいい気がするし、もうこれはしばらく使ってみないとわからないのだった。なので、すぐにダメとはいわずにやってみよう。軽くて静かなポメラ(そしてノートパソコン)と深くてうるさいキーボード、まったく逆の性格の機体がうちにある。不思議だ。

 よく寝た後に機械に熱中したせいか、なんだかぼんやりとしている。今日はここまで。夜勤は今日で最後。


3月10日(水)のちょっと低い平熱のままで

 なんとなく物件探しを続けていてこれは良いと思ったところを問い合わせたところなかなか返事がこなくて、昨日の夜勤中にメールが届いていたことに気付いて確認したところ、問い合わせの物件を放っておいて別の物件を何故かお勧めされたので、丁重にもう一度問い合わせたところ、今日の朝になって返信あり、既に埋まっているということで萎えてしまい、物件探しはもう少し落ち着いてからにしよう、とようやく納得した。こんなことに翻弄されていられない。引っ越そうと思えば、どこにでもいける。

 夜勤明けで、出張報告書を書いていなかったことを思い出す(最悪)。私はきれいに退職する気が果たしてあるのかというくらいの滑り込みである。ものすごく憂鬱になりながら脳の七割がそれを占めていて、これはとりあえずやっつけないことにはこの夜勤明けもそして明日の休日も穏やかに過ごせるはずがあろうか、いやそんなわけがない、そういうわけなのでさっさとシャワーを浴びて爆睡した後夕方にぼんやりと目を覚ましぼんやりとイベントの終わった音ゲーの新曲を何回かプレイしたらコートを着てよく行くカフェへと向かうその途中で発送を済ませる。「どこかの汽水域」がまたどこかに旅立っていった。どこかとは、ほんとうにどこかで、本のどこかにも含まれない誰かのもとへ行く度に、物語の拡張を感じる。

 とにもかくにも家ではやる気が起きない、とりわけやりたくないことに対するやる気は起きない。なのでカフェでダダダッと記憶を無理やり掘り起こしてとりあえず報告書をポメラで書き出すけれども時間が経っているのでいろいろと限界があった。果たしてこんなんでいいのかという疑問はさておいて完成させてコーヒーを飲むとあまりの美味しさに溶けそうになりながら堂々たる思いで今これを書いている。起床時の記録ではなくもはやほぼ夜である。閉店時間が軒並み二十時だったのが今はどこも二十一時と延長していて、だから気分的には余裕がある。

 思い返すとこの「朝の記録」を書き始めた頃は二十二時に寝て五時に起きるというのを目標として立てたが、最近は二十二時というのはあまりに私にとって早いということが判明しつつあり、なので二十三時に目標を変更して、とりあえずその時間になったら布団には入るようにしている。それでも眠れなくてついついスマホを見てしまったりするのだが(それがまた欲に弱いところ)、それで起きる時間は六時だったり七時だったり様々だった。退職したら生活リズムが崩れてしまいそうだからある程度自分で自制をつけながら執筆したり絵を描いたり本を読んだり畑に行ったりiPhoneで写真を撮ったりしながらそれがどこに向かうのかわからないけれどとりあえずそうした生活をしばらくして、いたい。

 どういう風に生きていく、生きていきたいのか、ということが、個人の営みで、そしてそれがこんな社会だったらいいのに、という風に拡張されていくだろうか。社会とか、地域とか、巨大な場所のイメージはつかなくて、ただただ、個人を見つめている。

 何者でもない。だからこそどこにでも流れていくのかもしれない。身を軽くする、そうしたことを考える。畑、そうした土地で営みを試しながら、できるだけ身軽でいること。ここではないどこかに逃げていくことをずっと考えている。

 それでたとえば小説のこととか、自分自身のプラットフォームとしての場所はほしいように思うから自作のホームページを作り直すとか、読みたい本が溢れてくるとか、モノが多いから断捨離するとか、よしもとばなながやっているようなメルマガの温度感がいいなとか、マジバケの続きしたいとか、沖縄に行きたいとか東京に行きたいとか、東北に行きたいとか、いつか田舎に帰るだろうけれどもそれはいつになるんだろうとか、少なくとも今ではないな、とかそんなことをつらつらと分散して考えた。なんというか、基本的には静かな場所にいたいし、同時に人の熱にも触れていたいのだろう。

 すごく、どこまでも平凡な人間であることを実感する。

 ちょっと低い平熱のままで、どうしたら穏やかであれるのかを、ずっと考えて、考えたまんま、こう、という答えを出さないまま、ずっと同じ言葉ばかりを繰り返して、同じ話題ばかりをずっと辿っているのではないだろうか。なんか、進展はあったのだったっけ。いや、少しずつ、進んでいる、はず。

 ほんとうに? 声がする。ぷらぷらと足を揺らしながら、少し高いところからこちらを見下ろしている誰かの声。

 たぶん、すぐにこうという答えも、すぐにこうという幸福も、なくて、いつか振り返ったときに、ここは止まったり戻ったり進んだり右往左往としながらやってきた場所で、全部、後付けみたいに名前がつけられていくんだろう。

 ああそうか、とふと思う。この「朝の記録」はそれでも、個人的な営みのゆれ、あわい、温度、単純な出来事、そうしたものをつらつらとすぐに話題が飛び火していきながらまとまらない頭の中を出力して、ずっと辿ってきて、もうじき一つの区切りがやってきて、ある種ここまで、具体的に言ってしまえば退職に至るまでの逃亡エピソードと生活の暗中模索エピソードがずっと現在進行形で綴られていた。やっぱり一冊にしようかな、と思う。


3月11日(木)の時間の幅

 世の中がハッと目覚めたみたいにどこにいっても震災の話題が尽きない。誰もがそのことを口にせずにはいられないように。でも明日になったら、来週になったら、忘れていってしまうのではないか、とそんな邪推なことを考えてしまいまっすぐになれない。十年目、それは節目ではあるがまだ通過点で、しかもこれから先やってくることはない十年目。

 でも、思い出すきっかけは、やっぱり必要で、そのたびに背を正して、あれは間違っていたとか、あんなことがあったとか、ちゃんと、振りかえるタイミングがあるということは、大事なことだろう。

 様々な写真や映像を見るたびに、どこか私は隔絶を感じる。どうしても踏み込めない線があることを知る。その向こうに私はいないけれども、その向こうにいた人がいて、そして今もいる人がいる。向こう側で戦っている人もいれば、離れて穏やかに過ごしている人もいる。どれも間違っていないしどれも正しいし、正しいとか間違いとももっと違う次元で、それぞれが思うように生きていれば、それで大丈夫と、そう思っていて。

 呑み込まれていった痛み、悲しみ。絶望。今も波の底で横たわっている、名前のある誰かがいる。探し続けている人がいる。終わっていない、どこかへ向かっていく、誰もがその渦中にいる。

 安寧を祈る他になにがあるだろう。

 震災を題材にして一篇を書いたのは昨年のことで、「いつか声は波を渡る」と題をつけた。私自身としては、その中に自分の見てきたものや印象を混ぜこんでいて(フィクションを書くうえで自分を重ねるのは良くないけれども)、一度言葉を尽くした。それもエゴであり、同時に祈りであってほしいと思う。生きていく人と死んでしまった人、両方へ向けて。

 当初は内容との繋がりもあり、十年目である今日に公開しようかと考えていたが、これだけ世界中の人が思いを寄せているのならば、その流れに乗せなくても大丈夫というか、私がそうしなくても、ちゃんと思い出しているということを感じているから、十年を越えて、正念場である来年以降で、手紙のように世に出せたらいいのかな、と思う。そしてまだ終わっていない、まだまとまっていない。

 私にできることといえば、寄付と、現地に赴いてその地に触れることだろう。今年はやっぱり、東北に行こう。そう思うのだった。

 昨晩は眠りにつく直前で、これからのことを考えながらiPadにがりがりと書き連ねていた。最近は私の中ではまっているのかもっぱらiPadのお世話になっている。

 三月末の文学賞に投稿するという人の話をネットで目にするたびに私も頑張らなきゃと思っていたけれども、小説家になりたいのだろうか、それが今目指したいまんなかなのかがとても微妙なところで、挑戦自体は格好いいことだとは思うけれども、ちょっとでも違和感を抱いた方に行ってどうするの、という思いもあり、たとえば頑張って無理やり三月末に間に合ったとしても挑戦したという事実だけが自分への勲章みたいに残るかもしれないけれどもそれが一体なんだというんだ舐めてんのかという明らかに狸の皮算用であることを考え、寝て起きたときの自分に任せることにして寝た。

 そして起きて、今やりたいことは生活や生き方の構築であって、肩書きがほしいわけではない、と思う。更に小説に関していえばずっと書いている長編小説に着手する方が今私にとって重要で、そして今強い興味を抱いているのは畑と旅であり、その中で当たり前に文を綴り本を読み絵を描く、なにかしらを作り続ける、読書と創作、そうした生活のこと。自分にとってとても大事な「書くこと」をまんなかにするとはどういうことなのか? という。それは、今ぼんやりと考えているものも違うかもしれないし、というか違っていて当たり前だから、とりあえず実践してみるしかない。

 プロに憧れは抱いているけれども、それは今ではないと思ったら楽になる。いや、プロというのも厳しい門であって、もう何年も、一年に何作品も提出している猛者がこの世の中にはたくさんいて、それでもとることのできない厳しい賞レースの世界。でも、賞をとりたいから、小説家になりたいから小説を書くのではなく、書きたいものがあるから小説を書くのであって、文を綴るのであって、賞レースに違和感を抱くのはつまりそこなのかもしれない。この際、自分の実力を一度棚に上げて。傲慢だ。

 幼い頃に読んで今でもよく覚えているのだが、「13歳のハローワーク」という村上龍のベストセラーで、作家の欄には、目指すことはお勧めしない、といったようなことが書いてある。作家は最後の最後に残された誰でもなれる可能性のある職業で、なろうと思えば誰でもなれるので、別のことに注力した方がいい、という話。一つの憧れの形で在り続けているジブリ映画「耳をすませば」で、物語を書ききった月島雫は語る、書きたいだけじゃだめ、もっと勉強しなきゃだめ、と。恐らく、根底にある色は似ている。問題は、私はとうの昔に十三歳を越え、月島雫の年齢(中学三年生)も越え、年齢としてはもう充分大人であり、何でも許される若造ではなくなりつつあり、いつまでこうした話をそのまま呑み込んでいることが許されるのか、という点ではある。

 許す、誰が? 社会の目? 親? 友達? 親戚? 自分自身?

 別に特殊な疑問ではなくて、実に平凡な悩みである。でも切実なことも確か。これで良かったんだ、といつか言えるように生きていられるだろうか。

 それでもぼんやりと新人賞に限らずいろんな文学賞を眺めていて審査員に恩田陸や小川洋子がいたら、恩田陸や小川洋子に届くかもしれない可能性があるというのは今この時代に生きている価値だなと思って(恩田陸や小川洋子に限らない話だけれど)、そうした奇跡に至るには挑戦しないことには一%ほどの可能性も浮かばないという紛う事なき事実が立ちはだかる。

 とりあえず昨晩つらつらとiPadに書いていたことには、旅と畑と創作と読書について書かれている。旅なんていうとちょっと突拍子もないようだが、これは今後どう生きていたいかを考えた時に一つとして出てきた、「どこにいても生きていく(書く)」の一つの形でもある。今は賞レースを手放して旅に向けて実践してみる、本を読む、小説を書く、作物を育てる、その方向に舵を切ってみる。そこに労働としての形がなんらかの姿で見出されたらいいのだけれど。生きる、をつくる。なにも道は一つではない。これからどんどん変容もしていくだろう。その中で、書くこと、それだけは手放さずにいられるように。どこまでもなにかを書き続けるために、その実践の日々、の準備中。



たいへん喜びます!本を読んで文にします。