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だしの香りにはおばあちゃんちの記憶が眠っている

 最近、味噌汁をあまり作らなくなっていた。理由は簡単で、味噌をとくのが面倒臭いからだ。
 コロナに対して油断してはならないと思い普段は家と職場の行き来、たまにスーパーに買い出し、という生活を続けているのだけれど、緊急事態宣言が解除され、少し下火になりつつあることもあり、明日の仕事終わりから帰省することにした。
 それにあたり、冷蔵庫の中身をどうにか消費しなければならず、4分の1カットの大根(88円也)がまるまる残っていて、久しぶりに大根の味噌汁を作ることにした。
 お湯を沸かして、お手軽な鰹風味の顆粒だしの素を入れる。
 おたまで回して、きちんと溶かすと、ふわりと漂うだしの香り。
 そこで思考がふと刺激された。
 ――この香りを、どこかで嗅いだことがある。
 勿論、何度も使ってきただしの素なので、憶えがあるのは当然のことなのだけれど、もっと深淵の、記憶の奥をやわらかく刺激されたような、そういう感覚だった。もう一度改めて香りを吸い込み、脳裏に浮かんだのは、台所に立つおばあちゃんの背中だった。
 ああ。
 この香りは、おばあちゃんちの香りだ。
 なんだかうっすらと涙が滲みそうな心持ちだった。
 おばあちゃんの作った料理、というよりも、おばあちゃんの家全体に満たされていた空気の香りがした。本当に、だしの香りがしていたのかどうなのかは解らない。けれど、私の記憶にぴたりと当てはまったのは、おばあちゃんの背中であり、笑みであり、古びつつある家屋の光であり影であり、その家屋に長い年月をかけて染みついた独特の香りだった。
 おばあちゃんは、山間部の、冬は雪が厳しく積もる場所で、長く一人で住んでいた。どうにかあの家での生活が続くようにとやってきたけれど、呆けが進み、数年前から私の実家のある付近の施設で暮らすようになっている。
 夏は地域の祭に合わせて親戚が集まり、正月も同様にみな集まるのが定例だった。施設に入所してからはもう随分とご無沙汰になってしまい、たまに親戚が手入れしに行っているようだけれど、私自身はもう何年もあの家に足を踏み入れていない。
 普段は和式と縁遠い生活をしているが、古き懐かしい日本家屋、畳が敷かれたいくつもの部屋がある、風通しの良いあの家を好ましく思っている。寝転んで畳の香りを吸い、縁側から眺める庭や、田舎ならではのだだっぴろいのどかな風景がとても懐かしく、好きだった。
 当たり前の光景を当たり前として享受できなくなったことは、単純に、寂しい。
 おばあちゃんの呆けはすこしずつすこしずつ進行しているように思う。まだ親しい人のことは理解できるけれど(でもコロナの影響で面会できなくなり、現状については不明である)、つい先程言ったことは憶えていない。おばあちゃんの中では私はもう永遠に大学を卒業しない気がしている。いつか人を理解できなくなってしまったら、忘れてしまったらと考えると、脳の萎縮によるどうしようもない現象であるとはいえ、やりきれない感情に包まれる。
 あの家はどうなるのか、まだ決められていない。恐らく。
 そんな現実的なことを考えると心の行き所が無くなる。
 だしの香り、おばあちゃんちを彷彿させるこの香りで過ったのは、おばあちゃんが元気に台所に立っていた頃の記憶。やわらかで、優しくて、それからじんわりと切ない。香りひとつで引き出される繊細な記憶。香りというのは、匂いというものは、記憶と密接に繋がっている。


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 香りと記憶という繋がりで、小川洋子の「凍りついた香り」を思い出し、久しぶりにページをめくった。だしとはまったく関係なく、メインの舞台がプラハだったり扱っている重要な小物が香水だったり、どちらかといえば洋風なお話である。
 調香師の夫が亡くなるところで物語は始まり、夫に内包された謎をゆっくりと丁寧に解きながら、主人公の妻が夫の死と向き合っていく本だ。小川洋子の繊細な描写で、綿密に物語は紡がれていく。

 一滴の香水で人差し指を濡らし、もう片方の手で髪をかき上げ、私の身体で一番温かい場所に触れた。私は眼をつぶり、じっと動かないでいた。その方がより深く香りをかぐことができたし、より近くに彼を感じることができた。彼の鼓動が聞こえ、息が額に吹き掛かった。人差し指はいつまでも湿ったままだった。(文庫版 P22-23より)

 ちりばめられた言葉が好きで大学生の頃よく開いていたのだけれど、最近は、本棚のお気に入りスペースのすみで眠っていた。懐かしくて開いたものの、思っていた以上に内容を憶えていなくて小さくない衝撃を受けた。
 香りを通じて刺激された記憶が、また別の記憶を呼び覚まし、そこに本があると、どこかほっとする。
 帰省といういい機会なので、読み直そうと思う。


 ちなみに、味噌をとくとおばあちゃんちの香りではなくなった。
 純粋なだしの香りであることが重要らしい。それも、鰹の。ちゃんと本物の鰹から生み出しただしではなく、既製品の顆粒だしであるあたり、お手軽な記憶の引き出しだ。大根の味噌汁は、見た目の華やかさはまったく無いが、大根の旨味が沁みていて美味しかった。また味噌をとく元気がある時に作ろう。
 そんな気付きのあった夜のこと。少しだけ心がゆたかになったような気がする瞬間。
 あなたの夜のどこかにも、優しくなれる瞬間が訪れますように。

たいへん喜びます!本を読んで文にします。