見出し画像

ろくろ首の胴の方

短編小説

◇◇◇


 東京で一人暮らしを始めた頃、初めて深夜に金縛りにあった。

 横向きになって寝ていたら、急に耳を塞がれたような感覚に陥り、続いて肋骨の上から強い力で押さえつけられた。胸が苦しくなり、もがこうとしたが押さえつける力が強すぎて抵抗できず、じっと耐えるしかなかった。脂汗が出てきて、このまま窒息してはたまらないと、渾身の力で抵抗したらやっと解くことができた。

 肩で息をしながら、これが世に言う金縛りというやつか、と思った。

 それからというもの、就寝中にたびたび金縛りに襲われるようになった。おかしなもので、何度も金縛りにあっていると慣れてくる。コツをつかんで簡単に解くことができるようになったら、気持ちにも余裕ができた。いつもなら、寝ていて耳鳴りが始まる予兆を感じると、やばいと思ってすぐに起き上がるのだが、敢えてそのまま金縛りに身を委ねて、拘束の強さを楽しむまでになっていた。

 春に就職したばかりで仕事は毎日忙しかった。残業も続いていた。このような環境での疲労の蓄積が、自分を金縛りになりやすい体質にさせてしまったのだろう。

 金縛りは科学で解明されている。睡眠と覚醒の齟齬により生じるもので、決して霊現象ではない。そう書かれていた新聞のコラムを丸々信じて安心し、軽くみていた。そんなある晩のことだ。今まで体験したことのない種類の金縛りに襲われたのは。

 当時住んでいたのは、ロフト付きワンルームの社員寮だった。居住スペースが狭小で、収納に難があり、寝室はもっぱらロフトを利用していた。クローゼットがないのでロフトの白い壁にフックを取り付け、無造作に上着を掛けておくのが常態化していた。

 その晩は仰向けの姿勢で、掛け布団を口元まで引き上げて目を閉じた。しばらく寝付けないでいると、耳鳴りが始まった。心の中で(来た来た……)と思い、胸への圧迫感の訪れを待った。いつものように、金縛りで遊んでやろうと思ったのだ。ところが、今回は様子が違っていた。身動きができなくなったところへ、さらに足元から何者かが這い上がってくるような気配を感じたのだ。腿の辺りを圧迫され、離れたと思ったらすぐにお腹を圧迫された。まるで、小さな動物が布団の上に乗っかり、ゆっくりと四つ足で歩行しているような感触なのだ。猫だと思った。実家で飼っていた猫から、こんな風にお腹の上を歩かれたことがある。だが、ここは社員寮だ。動物は飼えないことになっている。ゾッと寒気がした。金縛りで身動きができないまま、獣の足の感触をお腹の上で受けている。さらに胸にまで這い上がってくる。恐怖を感じながら何者かが布団の端から顔を出すのを目を凝らして待った。来る! と思った瞬間、猫の頭部のような黒い影がひょっこりと顔を出したのが見えて、わっと叫んで飛び起きた。金縛りを解くほどの怪力を発揮して、布団も撥ね除けていた。急いで手元にあったロフトの照明を点けたが、猫の姿はない。この目で確かに見たはずだが、気のせいだったというのか。……しばらく茫然とした。猫くらいの大きさの頭が、布団の端に見えたのは間違いない。そう思って、ロフトの明かりは消さず、さっきと同じ状態で布団を口元にまで引き上げて寝てみた。

 嘘だろ、と声が出た。

 布団の端から見えるものがある。足を向けて寝ていた方の白い壁に、無造作にハンガーに掛けて吊しておいた紺色のジャケット。その上襟の部分が、ちょうどいい角度で布団の端から望めるのだ。今し方、この目で見た、あの猫の頭部と同じサイズで。

◇◇

 この体験以来、金縛りを甘く見るのはやめた。ハンガーに掛けたジャケットの上襟が錯視を生み出したのだとしても、身動きが取れない中、得体の知れない獣が、腿から腹、腹から胸へと、四つ足で這い上がってきたあの生々しいまでの感触を、忘れることはできなかった。

 それからは、金縛りにならないための独自の対策を考えた。いくつか試して、運良くひとつの方法に辿り着いた。ラジオである。

 就寝時の静寂が重苦しくて、何気なくラジオをつけたのが始まりだった。ラジオの音に集中していると、不思議なことに耳鳴りを感じなくなって、金縛りに襲われることがなくなった。睡眠も好調で、聞きながら知らないうちに寝ていても、快適な朝を迎えることができた。

 そのうち、お気に入りのラジオ番組も見つかった。自分が好きなのは、リスナーから寄せられた怖い体験談を紹介するコーナーだった。怪奇趣味の自分には、たとえネタだとしてもゾクゾクする面白さがあった。


〈夜空を見上げても、北斗七星は絶対に見ないようにしています。北斗七星を見てしまうと、必ず不幸なことが起こるからです。この間の夜は、見た後に交通事故に遭いました〉
〈合わせ鏡にすると夜中に悪魔が出てくると友達が言っていたので、試しに部屋の中に鏡を向かい合わせに置いて、どうなるか待っていました。途中でうとうとしてしまい、気付いたら夜の二時。ふと見たら、毛むくじゃらの真っ黒なアルマジロみたいな生き物が鏡から出てきそうになっていました。もう二度と合わせ鏡はやりません〉


 というような、じわじわと怖くなる秀逸な投稿をするリスナーたちがいるので、週に一度のその番組が楽しみだった。

 ラジオで怪談を聞く、というのがマイブームになりつつあった頃、土曜日の夕方五時にFM東京でやっていた『サタデー・ウェイティングバー』をたまたま聞く機会があった。麻布にあるイタリアンレストランの“アヴァンティ”に訪れた客たちが交わす「東京一の日常会話」を、ちょっと盗み聞きするというスタイルが好評のラジオトークバラエティだ。ちょうどその日のテーマが『京都の怖い話』というものだった。夕暮れ時に伏見稲荷大社の近くを通りかかったら、数人の子供たちが輪になって集まり、何かコソコソと話し合っていた。何となく気になったので見ていたら、一斉に子供たちがこっちを振り向いた。その顔は全員目が吊り上がっていて、狐にそっくりだった……という話から始まり、古い伝統と文化が語り継がれる京都の不思議な話を、さまざまなゲストたちが披露していた。最後は大学時代を京都で過ごした人の体験で、当時同じ学生寮で暮らしていた仲間と、よく心霊スポットに出掛けていたという。その夜も一家惨殺の家があるといって、一台の車に七人が乗って向かった。一家惨殺の家は見つかったが、さすがに気味が悪く、何人かは中に入らずに帰ろうと言ったが、一人だけ怖いもの知らずで霊感のまったくない「鉄の心臓」とみんなから呼ばれている男がいて、大丈夫だから行こうぜと、どんどん先に進み、その廃家の中の探索を始めた。その家には座敷牢があったり、家族のアルバムが落ちていたりと、ゾッとする雰囲気に満ちていて、みんなは帰ろうと言い出したが、鉄の心臓の男だけが平気だと言っては、先に進もうとする。だが、急にその男が、やっぱり帰ろうと言い出した。全員急いで車に戻り、逃げるように帰った。あとになって、どうしてあのとき、おまえほどの男が急に帰ろうと言い出したのか、と鉄の心臓の男に訊ねたところ、彼が言うには、あのとき刃物を振り上げている男の姿が何故か自分に見えたという。さすがにこれはやばいと感じて、引き上げることにした、とのことだった。

 この放送回を聴いて以来、この番組のファンになった。仕事がある日は放送を録音して、夜はそれを聞きながら眠りについた。毎週テーマが違うので面白いけれど、できることなら、また「怖い話」が聞きたいと思っていた。ラジオと怪談は相性がいい。ラジオほど想像力を刺激して、怪談の恐怖を増幅させるものは他にない。この頃の自分は、とことん怖い話にのめり込んでいた。金縛りも、あれ以来、一度も起きていなかったのだ。……あの日までは。

◇◇

 会社も寮も八王子にあったので、甲州街道は営業回りでよく使っていた。その街道沿いにある小綺麗な書店で文庫本を一冊買った。講談社学術文庫の『怪談・奇談』小泉八雲著、平川祐弘編である。ここらできちんと小泉八雲を読み直してみようと思ったのだ。小学生のときに『怪談』を知ったが、「耳なし芳一」と「雪女」と「貉(むじな)」の話をかろうじて覚えているだけで、あとは読んだことがなかった。『怪談』は本来英語で書かれたものなので、出版社によって翻訳もさまざまだ。何冊か読み比べをして、もっとも文体が硬質で、原作に忠実なものを選んだらこの本になった。また、巻末に小泉八雲が参考にしたであろう日本語の原話もそのまま収録されており、そういう付録があるのも、講談社学術文庫版の魅力だった。

 昼休みの空いた時間にページをパラパラとめくっていると、一緒に営業先を回っている先輩から、「何を読んでいる? 官能小説か」と訊かれたので、書店のカバーを外して見せたら怪訝な顔をされた。

「最近、おまえの顔色が悪いのは、そういうのを読んでるからじゃないのか」
「顔色、変ですか?」
「青白いぞ。毎晩、誰かに精気を吸い取られてるんじゃないだろうな、『牡丹灯籠』みたいに。彼女を連れ込むのはいいが、あんまりやりすぎんなよ」
「彼女なんていないっすよ」

 仕事を終えて寮に帰り、敷きっぱなしの布団に寝転がって、『怪談・奇談』を読んだ。収録された四十二篇の中で、一番惹かれたのが『轆轤首(ろくろくび)』の話だった。こんな感想を持つのは自分だけかも知れないが、まるで映画の『スピード』みたいな小説だと思った。ストーリーということではなく、最後の方で、展開が二度、三度と変わる劇的な構成になっているからだ。キアヌ・リーブス主演の『スピード』は、犯人が仕掛けた爆弾により、減速すると爆発を起こすという危険なバスに乗り合わせることになった特殊部隊の警察官が、乗客とともに人質に取られた状態にも関わらず、知能を使って犯人を欺き、乗客全員を救出する、というのがメインストーリーだが、そこで終わらず、狡知に長けた犯人との、攻守の入れ替わる闘いがさらに続いていく構成になっている。『轆轤首』も、元は武士だが出家し、修行の旅で全国を回っていた僧が、ある日親切な木樵と出会い、山奥の家で一宿一飯の恩義を受けるも、ここが恐ろしい轆轤首の家であることに気付き、食い殺されてしまう前に先手を打って退治する。普通であればここで物語は終わるが、そこから所を変えて二度ほど展開があり、最後は主人公さえ交替してしまう。ある意味、『スピード』よりもエグい構成なのだ。

 読んでいて興奮した。まるで、極上のエンタメ小説を読んでいる感じがしたからだ。

 ろくろ首というと、首がにゅるっと長く伸びている化け物を想像するが、実はもう一つ、首だけが胴体から離れて飛んで行く「抜け首」というタイプのろくろ首がある。これは「飛頭蛮(ひとうばん)」と呼ばれる中国の妖怪が日本に伝わったもので、小泉八雲の『轆轤首』の中でも言及されているが、中国の怪異小説の古典『捜神記(そうじんき)』には、その原型のような、夜中に首が体から抜けて飛んでいく婢女の話が載っている。『怪談』に登場するのも、その「抜け首」タイプのろくろ首だ。抜けた首は、夜の間、飛んでいる虫をぱくぱくと食べている。そのシーンを読んだとき、まるで蝙蝠みたいだなと思った。『怪談』では、退治の方法も、その『捜神記』を踏襲している。首が抜けている間、胴体を移動させたり、首の離れた部分を覆ったりすると、飛んでいた首は元に戻れなくなり、鞠のように何度か地面に弾んだあと、苦しげに喘いで死んでしまうのだ。

 また、小泉八雲の『轆轤首』は、自然描写も秀逸だ。月に照らされた山奥の様子が、虫の声や遠くに聞こえる滝の音とともに、限りない美しさを宿した簡潔な言葉で記述されているのだ。

 あまりにも好きすぎて何度も繰り返し読んでいるうちに、ほとんどこの物語を暗誦できるほどまでになっていた。出張先でラジオが聴けないときは、頭の中で映像を想い描きながら『轆轤首』の話を諳んじた。夜中に読経していた僧が、水をもらいに襖を開けたら、行灯の光で寝ている五人に首がないことを発見する……そんなシーンに辿り着く頃に、たいがい眠りは訪れていた。

◇◇

 その夜は、自分がもっとも好きなラジオ番組がある日だった。週に一度、リスナーからの怖い投稿を紹介する放送日だ。仕事で体は疲れていたが、どうしても聴きたかったので、シャワーを浴びてパジャマに着替え、念のため、MDに録音しながら寝床に入った。前に先輩から顔色のことで注意され、「あんまりやりすぎんなよ」とからかわれたことがあったが、こんな狭い寮に女の子を連れ込めるわけがないし、実のところ、これまで彼女ができた経験もない。実家の母から食料品の仕送りが届いたとき、その中に父親が会社のビンゴゲームで当てたというパジャマが入っていたのだが、その上着は女性の赤いキスマークが斜めにデカデカとプリントされたデザインになっており、こんな奇抜なパジャマ、いったい誰が着るんだと思ったものの、誰に見られるわけでもないと思い直し、結局は愛用している。まさかこの変なパジャマを着ているからだとは思いたくないが、先日見知らぬ女性とこの寝床で性交をしているリアルな淫夢を見て、目覚めたら盛大に夢精をしていた。先輩が言うように『牡丹灯籠』のようなことが本当に起きているなら洒落にならないが、さすがにそれは考えすぎだろう。

 どのくらい経ったのだろうか。ラジオが鳴っている。いつも聴いている番組が始まっている。やはり、うっかり寝てしまったのだと思った。時計を見ようと体を動かそうとしたが、微動だにしない。全身が鋼鉄でできているかのようなのだ。

 金縛り……?

 何ヶ月ぶりだろう。遠慮なく押さえつけられている感じに、懐かしさすら覚えた。さて、どうやって解こうか。

 ラジオに耳を澄ますと、何だか番組の様子がおかしい。いつもなら、パーソナリティーの男性が静かな口調で投稿を紹介し、聞き役の女性タレントが絶妙に怖がるリアクションを入れているところなのに、今夜はその男性が興奮したように声を張り上げている。


〈目撃した人から情報が送られてきています。これ、本当なんだよね? みんな、メールアドレス間違えないでね。番組サイトの掲示板に書き込んでもいいから。でも嘘だけはやめて。みんなを信じてるから!〉
〈はい、たった今、新しいメールが届きました。読むよ。ラジオネーム、ポンポンポポポンさん。「甲州街道を高尾から八王子に向かって走る最終バスに、首なし男が乗っています。ガチです」。続いてはラジオネーム、靴下の穴デコレーターさん。「八王子方面に行くバスです。先頭の席で座らずに立っているのが見えました。着ている服の特徴も一致してます」〉



 いったい何が起きているというのだろう。首なし男とは何なのか? 何となくだが、嫌な予感がしてならない。


〈凄い情報をくれた子がいるよ! ラジオネーム、寝る子は粗雑さん。「今そのバスに乗っている友達と電話で話ができました。首なし男は無理矢理バスの運転を代わったそうです。運転手が怪我をして、友達はパニックになっています」だって。おいおい、たいへんなことになってきたよ!〉



 聴いているうちに事情がつかめてきた。信じられないことだが、首から上の部分が欠落した不審な男が都内に現れ、現在、客を乗せたバスを乗っ取り、甲州街道を暴走中だというのだ。番組にはリアルタイムで情報が寄せられていた。起こっている場所が、高尾とか八王子とか自分が住んでいる近所なので、落ち着いていられなかった。だが、どういうわけか起き上がりたくても、今夜に限って金縛りが解けないのだ。


〈首なし男の新しい情報です。ラジオネーム、ちくびの正解率100%さん。「首なし男が八王子駅の手前でバスを乗り捨てて、そのままどこかにいなくなりました。乗客は全員無事です」。続いてラジオネーム、豚足じゃないよ蟹だよさん。「首なし男が路上で通行人に絡まれている。大きなキスマークのパジャマを着ていたので間違いない」〉



 大きなキスマークのパジャマと聞いて、慄然とした。そんな偶然があるだろうか。今すぐ自分の体を確かめたいが、金縛りで自由がきかない。もう嫌な予感しかない。


〈ラジオネーム、こう書いてこう書いて黄鶴楼さん。「京王八王子駅に首なし男が現れました。駅員が追いかけています。床に血痕が落ちていて、構内が騒然としています」。ラジオネーム、由美かおるの入浴剤さん。「首なし男、脇腹を刺されているみたい。何か痛そう」。ラジオネーム、着せ替えマンドラゴラさん。「見ました、首なしのやつ、キセル乗車をやらかしました」〉



 ロフトの真っ暗な天井を見上げながら、良からぬ想像ばかりが働いてしまう。刺されているとはどういうことか。それに、電車をただ乗りしてどこへ行こうというのか。

 考えたくない。考えたくはないが、首なし男のあの胴体は、もしかして、自分の胴体なのではないだろうか。金縛りがいつもの金縛りと違うような気がする。体が動かないのは、今、自分の首から下が抜けているからではないだろうか。けれども、ろくろ首の首の方ではなく、胴の方が夜の町を彷徨っているなんて、聞いたことがない。いや、そもそも、自分はろくろ首ではない。ろくろ首のはずがないのだ。夢だ。これは夢に決まっている。解けろ、解けてくれ。くそっ、解けろっ、解けろよ金縛り!


〈みなさん、早くも2ちゃんねるにスレッドが立ったようですね。八王子で絡まれたときに刺されたのを見たという書き込みがありました。刺された箇所から腸がはみ出しているという話もあります。こっちにも新しい目撃情報が届いてるので紹介します。ラジオネーム、ホットケーキマックスさん。「首なし男を追跡しています。北野で京王高尾線に乗り換えた首なし男は、めじろ台でホームに降りたあと、発車間際に電車の屋根に上りました。一瞬のことだったので、運転士は気付いていないかも」ええっ! どうなってんの? 今、屋根に乗せて走ってるってこと? ええっ?〉



 まさか。嘘だ、嘘だ。そんなはずはない。バスのハンドルを握ってバスを暴走させ、挙げ句の果てには、走っている電車の屋根に上るだと? これじゃあまるで、映画の『スピード』とそっくりじゃないか。

 頭の中が混乱して整理がつかない。首なし男が何をしたいのかわからないが、走っている電車の屋根にしがみついているなら、やつは『スピード』のシーンをそっくり真似したいのかも知れない。犯人役をしていたデニス・ホッパーは、最後、この映画でどうなるんだったか。いやいや、轆轤首の話と映画の『スピード』を繋げて考えているなんて自分だけだ。やはり、これは夢だ。明晰夢だ。首なし男はバスで高尾から八王子へ向かい、今度は電車で八王子から高尾へまた戻って来ている。つまり、やつはこの近所に……え? ここに帰って来ようとしているのか。


〈ラジオネーム、今夜は土手にマスキングさん。「現在、車両点検のため、狭間と高尾の間で一時停車しています。首なしさんは見つかっていません。どこに行ったん?……」〉



 玄関の扉が開く音がする。部屋に上がり、ロフトの梯子を登ってくる気配がする。しなやかな衣擦れ。

 夢の中で同衾した女性だろうか。精気を吸いに来た妖婦だとしても、自分から拒むことはできない。あの際限なく続く射精感は忘れられない。それとも、首を求めて帰ってきた胴体だろうか。もしそうなら、繋がった瞬間、脇腹に激痛が走るだろう。自分に耐えられるだろうか。本当の恐怖はどちらのことをいうのだろう。夢だとわかっていても怖いものは怖い。先に気を失わせてくれるスイッチはないものか。不思議な夜だ。いつまで経っても、闇に目が慣れない。誰かが布団をめくる。顔に冷たい手がかかる。

◇◇

 あの八王子の寮には半年間暮らした。健康上の理由で、営業職から同じ系列会社の町田工場へと移った。だが、八王子にいた頃に発症した病気を理由に、一年で退社してしまった。短い東京ライフだった。いずれにせよ二十年以上も前の話だ。

 あの日の朝のことは覚えている。ニュースを隈無くチェックしたが、首なし男の騒ぎなど、どこにも起きていなかった。左脇腹に原因不明の激痛はあったものの、特別異常なものではなかった。ただ、下着だけは洗濯した。

 前の晩のラジオは録音していたはずだが、そのMDはエラー表示が出て再生できなかった。念のため2ちゃんねるを検索したが、首なし男のスレッドは一件も立っていなかった。世の中に、不思議なことはないかのように、当たり前の日常が始まっていた。

 今もラジオはよく聴いている。田舎には東京ほど受信できるラジオ局は多くないが、十分楽しんでいる。小泉八雲の『怪談・奇談』は今も愛読書だ。

 金縛り? 最近はご無沙汰している。ただ、自分にとって、唯一の心霊体験だと自負していたのが、体の上を獣が歩いたというあの寮での体験だった。

 だが、つい先日、金縛りについて再度調べたところ、ポツポツと移動するような圧迫感という症状が例に挙げられていた。つまり、自分が体験した〈体の上を歩く獣〉は、普遍的な金縛り体験の範疇に入るものだったようだ。

 そのうち、首が抜けて胴体だけ歩き出す、という金縛りの症例が報告されたりしないものだろうか。いつかそういう日がくるのではないかと思っている。

(了)


四百字詰原稿用紙約二十四枚(8,616字)


◇◇◇


※この作品はフィクションですが、TOKYO FM『サントリー・サタデー・ウェイティングバー』での『京都の怖い話』の内容は、実際に放送されたものを参考にさせて頂きました。

〈今回参考にした図書リスト〉

・『怪談・奇談』小泉八雲著 平川祐弘編 講談社学術文庫

画像1



この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?