見出し画像

谷崎潤一郎『春琴抄』《砂に埋めた書架から》36冊目

 日本語による美文の書き手である谷崎潤一郎は、長い間私にとって、憧憬の念を抱いて遠くから見詰める存在だった。自分には格調が高すぎる気がして、これまで谷崎潤一郎の作品を敬遠していたのである。このような理由から、私は最初に読む谷崎作品をどれにするかすぐには選ぶことができなかった。悩んだ末に手にしたのがこの『春琴抄』だったのである。まだこの一作を読んだだけなので、偉大なこの文豪について何かを語ることはとてもできないが、ただ、この『春琴抄』という作品を読み進めているあいだ、私は、しばしば声に出して読みたい衝動に駆られ、実際途中で何度も音読したのだった。

 最近、巷では詩の朗読会がブームのようである。多くの場合、聴衆の前で朗読者が、あるいは作者自らが朗読して作品を披露する。テキストは声に還元され、言葉の響きと声の響きが互いに共鳴し合うことにより、普段とは違った作品世界が浮かび上がる。これが朗読会の魅力であろう。

 詩に限らず、小説の朗読会も各地で催されているという。小説も、やはり聴いていて心地いいのは文章のリズムであろう。谷崎作品は、声に出して読んでみると、日本語を読む心地よさが格別だと実感する。リズムが美しいのである。自分の喉から、スラスラと流れるように、あの格調を備えた文章が音声をともなって迸るとき、そこには快感が明らかに存在している。

 若くして失明した三味線の名手、春琴(しゅんきん)。
 琴三弦の師匠として弟子を取る彼女は、「端麗にして高雅」な容貌を持ち、時として峻烈なまでの気性の爆発を稽古中にみせる。
 そんな彼女に献身的に仕える弟子の佐助は、春琴のことを絶対的な存在として崇める生き方を終生貫くのだ。

 佐助の献身ぶりは、マゾヒスティックと言ってもいいくらいで、物語の後半、春琴の美貌が損なわれたとわかったときの、彼の大胆な行動は、その絶頂の形であろう。

 この物語を谷崎の美麗な文章で読めること。これこそが、日本語を解する者の幸福な特権に思えるのだ。ずいぶんと手に取るまで時間がかかったが、読みたい気持ちが沸々と湧いてくるのを私は待っていて良かったと思う。


書籍 『春琴抄』谷崎潤一郎 新潮文庫

画像1

◇◇◇◇


■追記■

 この書評(というよりは感想文)は、2000年8月に作成したものです。

 純文学の古典や近代の名作を感想に書こうとすると、あまり中身に斬り込んでいない自分を発見します。読めていないからです。理解を深めて読み解くべきところを、頭が追いつかなくてスルーしてしまうからです。

 この『春琴抄』の感想文も、朗読や文章のリズムのことは書いても、あまり中身には触れていないことに気付きました。

 ただ、この『春琴抄』を読んだときから、私の谷崎潤一郎への憧れがますます強くなっていったことは間違いなく、その後、臙脂色に金色の梅が映える新潮文庫の、風雅な趣を持つ表紙にときめきを覚えながら少しずつ買い込み、冒頭だけを読んでは自分の本棚に戻す、という行為を私はずっとやっていました。『蓼喰う虫』『卍』のような、ちょっと息の長い感じの書き出しを読むと、あまりの美しさに陶酔を覚え、まだ早いまだ早い、と読むのを躊躇う自分がいます。

 一昨年の正月に、私はとうとう『刺青・秘密』(新潮文庫)を読みました。人間の感情には横道があって、普通であれば真っ直ぐの道を進むはずが、ふと心に萌した好奇心や悪戯心から、すっと横道に這入ってしまう、いや、這入らずにはいられなくなる、なぜならそこに、妖しい誘惑があることを薄々知っているから……。この頃の谷崎の短編には、読む者をそのような感情に引き込み、あわよくば溺れさせようとすることを嬉々として文字にしているように感じます。私だけの感じ方かも知れません。『刺青』で、女性の肢体を描写する比喩の卓抜さに泡を吹いて倒れそうになったあと、次に収録された『少年』で私は完全に打ちのめされました。このへんてこな構造のへんてこな小説。子供たちの悪ふざけとじゃれ合いがエスカレートして、責めと受けが逆転し、苦痛と快楽、嗜虐と被虐、エロスとフェチが子供の世界の中で繰り広げられるこの作品を、まさかそんなお話だとは思わずに読んでいたので、不意打ちもあって圧倒されてしまいました。読みながら私は谷崎に調教されているような気持ちになったことが強く印象に残っています。その後の『幇間』『秘密』も、妖しい横道に誘うような傑作で、続く残りの三編も含めて、この作品集は谷崎の初期の魅力を知るのにうってつけの一冊ではないでしょうか。

「新潮」2011年5月号には特別付録がありました。谷崎潤一郎の『瘋癲老人日記』の音声劇を収録したCDです。主人公の声を演じているのは、谷崎潤一郎本人。七十代の谷崎の肉声が聴ける貴重な音源です。好々爺然とした雰囲気、艶のある声音、コケティッシュでとぼけた演技が楽しめるとても良い付録で、個人的には谷崎潤一郎のイメージが刷新されました。また文芸誌でこういう贅沢な企画がなされることを私は切に望んでいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?